鏡花水月

キョウカスイゲツ

黒い月

岡先生の文章

 

『これは絵なのだから、言葉にしない方が良い』

 

はらりと繰った頁に見いだした一節に、立ち所に心を奪われてしまった。何と物の解った人なのだろう、烏滸がましくもそのように思った。

 

 

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酒井抱一の絵に、「月に秋草図」がある。

 

後方に月、手前に秋の草花が配してある。穂の色は翳り、枯れきったような葉色の芒に、瑞々しい色合いの桔梗、女郎花が配される。白々とした画面に、闇夜を想起させるものは無い。月の光に照らし出された、しめやかに浮かび上がる芒の穂の柔らかな白、月の清かな光は全く廃され、寧ろ色を無くしている。

 

他方、闇夜において判別できない筈の花の色合いは、克明に描き出されている。実際には、月の光の下では暗すぎて、秋の色に染まる草花の深い色合いなど解らない筈である。しかし、それらは陽の下にあるかのように、鮮明に描かれている。

 

夜半、月の光の筋を追っていくと、闇に沈んだ草花は、秋の色合いを持って身の奧に浮かび上がってくる。仄かな月の光の下では、視力こそあてにはならない。画面に身を浸していると、吹き抜けていく秋風が感じられる。画面前面に配された、秋の草々が身に迫ってくる。そこには清かな月光が注いでいる。闇を裂く月の光、それを最もよく映した芒の出で立ちとが、明暗を反転したような画面から浮上する。

 

闇に沈み判別のつかない草花の色が、最も自分の身に近しい位置にある。その時月は後景に沈む。描かれた月が、それ自身の光の放散した空よりも黒くあるところの必然はそこにある。

 

写実的とも思われる草花の描き方に反し、月は全く無慈悲にと思われる程の黒一色に染められている。その時のその月は、前面の草花を辿って初めて見えてくる。度肝を抜かれる程の月の描き様と、全体の調和は必然を示している。だからこそ、月は黒く描かれねばならなかった。全く存在感を無くしてしまった月は、観る者のこころに蘇ってくる。描かれた秋と、描かれなかった月を同時に観ている。そこにある安らぎを覚え、観る者の足を止めさせる。

 

私は岡先生の文章に触れて、この絵が解ったと思った。それは上述したようなことで、つまり描き方や構図などではないのだということだった。

 


絵は、安易に言葉にしない方が良い。

 

それがどのような絵なのかと、簡単に語らない方が良い。

 

ただそこに佇んでみる、佇んでいるそのことが意識にのぼらないその場所にー例えるならば、その場所を「こころのふるさと」と呼ぶのかも知れない。

 


『一方を明らむれば一方は暗し』ーと、岡先生は道元の言葉を自身の文章に差し入れる。その言葉はそれだけで、長々とした解釈もなく、只控えめにそこに配されたというような言葉の運びだった。白紙の上には、薄墨で書かれた文字も色濃く残る。例えばそのような状態でなければ、岡先生の言葉に出会うこともできないのではないかと、そんな気がした。

 

最近、何かを解ることは、忘れることなのだと、そのように思い知らされた気がした。解った、と思ったことは絶対ーなの「かもしれない」のに、右足の次には左足を差し出さねばならないように、歩を進めるにはそこに確かさを置くしかない。解るということは、そういうことなのではないかと、そんな気がした。「解った」と思った瞬間に、そうではないかもしれない可能性は忘却される。実際には、解ったと思われたことと、そうではないかもしれない可能性は同時に存在しているのだ。しかし「解った」と思った刹那の感覚は鋭すぎて、ともすればそれ以外の可能性を忘れるーというような感覚に陥ってしまう。

 

酒井抱一の黒い月を、その実物を眼の前にした瞬間から、意識の底ではずっと気掛かりに思っていた。絵を眼の前にした時に感じた月の光と秋風の行方を今まで追い続けていた。そのことを、岡先生の言葉で思い出したのだった。平生使う「解る」という言葉には、岡先生の記す「発見の鋭い喜び」が伴うまでは至らない。解るということは、然したることではないー「解る」ということについて改めて考えさせられた。

 

※追記:「春風夏雨」に道元禅師の言葉の解釈が載っていました。

「心身を挙して色を看取し、身心を挙して音を聴取するに、親しく会取すれども、鏡の影を映すが如くにはあらず。一方を明らむれば、一方は暗し」

会取のところで一番よくわかるのであって、すっかりわかってしまうのであるが、何がどうわかったかはわからないのである。(創造) 

私が「解る」についてあやふやな感覚しか持っていないのも、「解る」というのはただ考えているだけでは得られないものだからです。このことを”無明で濁る”と岡先生は記しておられます。だから私が「解った」と思ったのは頭で考えて閃いた、という程度のもので、然したるものではないのです。 

 

 

しばらくの間、立つことも歩くこともできなかった。これは比喩だが、そうした状態が必要だったと、確信を持てるまでに至ってみたいという気がする。生きている間、影は一時も離れずにいる。

 

・・・・・・・


岡潔先生のことは、森田真生さんに教えて頂いた。森田さんの存在を知らなければ、岡先生にも出会うことはなかった。

 

森田さんの語り口から、岡先生という方の大きさを思わされた。全身全霊を傾けるーという言葉が比喩にもならないと思わされる様な、その語り方はただならぬ感じがした。森田さんーほどの方が、これほど尊敬される方なのだからと思うと興味を持ったが、私のような者がその著書に記されたところを知ることはできないような気がした。しかしどうしても自制できずに、数頁繰ってみる。そうした時にも、眼に飛び込んで来る文章から受ける印象は鮮烈だった。ここに記したのはその一端である。

 


私がこれまで挙げた人物は、ーここまで書き散らしておいて今更と、自戒しつつ思うことだがー私が何等かの言葉を添えるのは烏滸がましいと思う方々である。どうしても記さずにいられなかったのは、「解らない部分」で出会いたいと願いつつも、「解った」ところでしか出会うことが許されぬかのような現実に、苦しむ方が多くいらっしゃるのではないかと、そのように思うからである。そのような中、これまで挙げた人物の言葉には、限りなく大きい何かを与えられ、救われたと実感するところがあった。暗闇の中に居ても良い、そこに出会いがある、そのように思うとき、いのちという形ないものに、温もりを感じるのである。

 

数学する人生

数学する人生

 

 

 

岡潔/胡蘭成 (新学社近代浪漫派文庫)

岡潔/胡蘭成 (新学社近代浪漫派文庫)