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夏空の雲(一)

生命の所在

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言論の自由」ということを考えるとき、種々の法律は生きている人間に対してのものなのだと、改めて思わされる。
事故、災害、戦争などで不意に死した人間は、死に際し言葉を残す暇もなかった。
だが、近しい人の内に、死者が死後も語りかけてくる言葉がある。

 

死を悼むことは、サルの行動にも見いだされると河合雅雄氏はいう。不意に亡くなった人間はただちに物質と化し、人間であった痕跡すら、死を境にその全てが悉く消え去るということは考えにくい。物理的に不可能になったという状態と、語る意志の喪失は、人間の文化の範疇からして混同されるはずのないものである。故人の遺志という言葉が示すように、死して尚人間はその形態を保持し、静かに語りかけてくる。命の所在は、故人の身の内のみに留まるものではない。

 

いつから死を物質のように扱うようになったのだろう。
これを反転させるとこのようになる、ー「物質は死である」。言葉を発しない、共感をもよおさないものは、すなわち死である。
しかしこのような考え方は、かつての日本人の感性からは反れたものである。「山川草木悉有仏性」などがそれに当たる。日本人は、物質や、動植物とも対話し、文化を創ってきた。それは、相対するものの全てが、自身の精神の向きと向き合う行為であったからに他ならない。自身が対峙した物事をどのように捉え対応するべきかは、自身が向き合った世界が教えてくれた。世界の語る言葉を聴くときには、単なるエゴ、個人主義からの誤読に陥ることのないよう、自身の身も心も整える必要が生じた。そうした考え方や礼儀作法を日本人は身につけていた。

 

現代は飽食の時代であると言われ久しい。そして豊かな物質に囲まれた時代である。そう遠くはない昔、人間の生活を支える最低限の衣食住すら整わない時代があった。そうした時代の渦中にあり、溢れるほどの物質で満たされたいという夢を持つことは、謂わば自然な向きであり流れであったのかもしれない。それを単に「物欲」と括るのは厳しい。そもそも「欲」というのは、全く否定されるべきものなのか。人間が「生きる意欲」を失ったらどうであろう。つまり、「欲」というものは突き上げるように際限なく求め続けるという構造をもつものなのではないか。

 

私達はこれまで人間が歴史の中で経験したことのない、豊物の時代の最中にいる。物資に困窮した時代においては、足らぬという欠落をどのように満たすのかということを考えた。サルにおいては共同原理であり、食物を奪い合うよりも分かつことで余計な対立を避ける方向に発展した。これはサルから進化した人間においてもいえることで、物資の欠乏した時代にはそれなりの作法というものがあった。

 

豊かな時代の作法を私達は知らない。
故人の言葉にこのようなものがある。「衣食足りて礼節を知る」、「恒産なくして恒心なし」。
人間は欲に駆られるまま過剰な物資を生み出し、消費し続けている。
だが、いつから物が「消費される」物になったのか。豊かな物資を前に、必要、不要の別、すなわち何を要するのかということを吟味する煩わしさは軽減された。余りある物質を容易に手にすることができ、尚且つ躊躇なく捨てられる。しかし、要、不要の別を考えることは単に「煩わしい」とされるだけのものであったのだろうか。

 

物にも魂が宿ると考えた時代には、物に対峙する時にも言葉が介在し、精神の運動があった。つまり物と語ることができた。物と語るというのは、物の扱い方を知り、物の用途を知り、物との関係を自分の経験として血肉にするという行為と過程を指す。物質は無機質なものではなく、自分の身の内で感じることを経て物質にも生命が付与され、そこに豊かさの実感が生じていた。これは、人間が何かと向き合う時の礼節を知っていたからである。自分は自分の経験枠でしか世界を知ることができない。その世界の枠を広げ、豊かさを付与してくれるもの、それを広く環境に求めるということを自然としていたのではないか。

 

工業化が進み、大量生産と大量消費に支えられる時代が到来した。このような時代を背景として、単に物質を無機質な「モノ」とみなし、自身と何の関与もしないと切り捨てるのは易い。これは自身にとって煩わしい関係性を切り捨てることの方便にもなる。「関係ない」というのは端的にその心をよく言い表している。そのような自分に都合の良いものだけを見て、不都合なものを切り捨てるという行為から生じるのは精神の偏りであり、それが世界を狭めることに繋がっている。

 

子どもと自然 (岩波新書)

子どもと自然 (岩波新書)

 

 

 

河合隼雄氏は、日本社会を母系社会であると説明している。


母系社会の原理は「包含する」機能によって示される。それは全てのものを良きにつけ悪しきにつけ包み込んでしまい、そこでは全てのものが絶対的な平等性をもつ。「わが子であるかぎり」全ては平等に可愛いのであり、それは子どもの個性や能力とは関係のないことである。しかしながら、母親は子どもが勝手に母の膝下を離れることを許さない。それは子どもの危険を守るためでもあるし、母ー子一体という根本原理の破壊を許さぬためといってもよい。このような時、動物の母親が実際にすることがあるが、母は子を呑み込んでしまうのである。
かくて母性原理はその肯定的な面においては、生み育てるものであり、否定的には、呑み込み、しがみつきして、死に至らしめる面をもっている(母系社会日本の病理)

 

先に「欲」の構造について触れた。「欲」、生命の活動を支え動かす原動力になるものでもある。生命を強力に肯定し支えるものが欲であるなら、それを否定することは難しい。しかし、光を求めるように突き動かされるだけで、光から生じた闇を見ないというのは、謂わば半身の状態であり、世界の半分を知らないということである。

 

母性という光に包まれ、家族という、社会から否定されることが生じようとも自身の存在場所を与え肯定してくれるものに依存し甘んじることは、真にそうして自身を支えてくれるものに対する理解と、尊重することには繋がらない。人間は一度は身を切るようにして自身を擁護するものの両腕から離れ、自身の枠の中でそれらを再構成する必要がある。つまり自身の物語の中で「死に」、そこから「生まれ」、新たな眼で世界を構築するという作業が成長には必要なのである。自身との関係性を見いだせないところに意味も世界も生じることはない。

 

更に河合隼雄氏は「絆」のもつ二つの側面について触れる。絆は「きずな」と読み、関係性を強固にするものとして肯定される側面もあるが、「ほだし」という別の側面もある。

 

(前略)平安時代の物語などを読むと「ほだし」と読まれ、それは馬の足にからませて歩けないようにする縄を意味し、出家して仏門に帰依したいときに、親子の情などの「ほだし」が邪魔になる、という意味に用いられているのである。青年期に人間が自立しようとするとき、親子関係などは「ほだし」として意識されるのではないだろうか。かといって、親子の「きずな」が弱いほど人間は自立しやすいと言えないところに人間関係のおもしろさがある。十分な「きずな」の存在を前提としつつ、それを「ほだし」と感じて青年は努力する。その逆説とバランスの間で、一人前の成人が誕生してくるのである。(「老いる」とはどういうことか)

 

「老いる」とはどういうことか (講談社+α文庫)

「老いる」とはどういうことか (講談社+α文庫)

 

 

3.11の後、「絆」という文字がもてはやされ、連呼されるという現象が生じていたのは記憶に新しい。近年日常的に経験することのない、甚大な被害をもたらした大災害を受け、俄に生じた大きな不安感を払拭すべく安定が求められた。しかしそのような心の動きは理解することができるが、何かにすがりつくように盲目的に行動化を図るということ、反動、反目、対極にある極から極への枝に飛びつくようにし生きるということは、樹上生活から地上への生活へと基軸を移動させ発生した「ヒト」の進化の過程からも反するように思われる。

 

幸福の所在

「人間は幸福を求める動物である」と河合雅雄氏は言う。しかし私達は幸福の所在を知らない。足りない何かが手に入りさえすれば、と欠落が幸福を求める。しかし不老不死の聖水はなく、安住の地もこの世界には在りそうもない。全てを包み込んでくれるグレートマザーの両腕に還るのを望むことは、すなわち、人間としての自立性を放棄し死を志向することに繋がる。母性原理の対極にある父性に安定を求めるにしても、そこには既に翳りが見えている。


(前略)父性原理は「切断する」機能にその特徴を示す。それはすべてのものを切断し分割する。主体と客体、善と悪、上と下などに分類し、母性がすべての子どもを平等に扱うのに対して、子どもをその能力や個性の応じて類別する。極端な表現をすれば、母性が「わが子はすべてよい子という標語によって、すべての子を育てようとするのに対して、父性は「よい子だけがわが子」という規範によって、子どもを鍛えようとするのである。父性原理は、このようにして強いものをつくりあげていく建設的な面と、また逆に切断の力が強すぎて破綻に至る面と両面をそなえている(母系社会日本の病理)。

 

これはキリスト教神話にみられるように、唯一絶対の男性神を中心とする構造に繋がっている。

 

中心による統合のモデルは、西洋における自然科学の発展に大きく寄与したと思われる。合理性という原理を中心に、矛盾を含まず論理的に整合性をもつ体系を樹立することによって、自然科学は大いに発展したのである。しかしながら、このモデルは自分の体系と矛盾するものは全て組織外に排除する傾向をもっている。従って、その矛盾を許さぬ統合性は極めて強力ではあるが、反面、もろい面を持ち合わせている。そして、それは常に排除した対象と戦い、あるいは、それを抹殺する意図を継続するために、強力なエネルギーを必要としている(中空構造の日本の深層)

 

中空構造日本の深層 (中公文庫)

中空構造日本の深層 (中公文庫)

 

 

このように引用を重ねていると、それは理路整然として解りやすく身に迫ってくるが、同時にそれらはもはや体験済みのこととして身の内にあると感じられる。

 

先に挙げた「人間は幸福を求める動物である」という語句は誰もが納得するであろうが、幸福を得ることのモデルが存在しないことは何故なのだろうか。誰かが「私は幸福である」と言った言葉を、俄には信じ難いと感じるのは何故なのだろう。つまり、幸福に中心性はない。かといって全体に放散してしまうなら、幸福という概念すら意味を成さない。幸福はないとする言葉にも是という反応を示すことができない。何故か?幸福を私達は既に体験していて、その実感もある。だがそれはある形態を持つものではない。物質のように外側に求めるものではなく、身の内にある個人的な体験なのである。