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「癩王のテラス」

「癩王のテラス」

 

「癩王のテラス」は、癩病に見舞われた王の一生を綴ったフィクションで、癩病がかつて業病と言われたように、人間の業を描いた、三島由紀夫の創作した最後の戯曲である。この「癩王のテラス」は、小説「仮面の告白」と共に自伝的な要素を含み、三島由紀夫自身を知る上で重要な作品とされている。
1969年に初演となった後、この2016年3月に宮本亜門さんの演出により再演されることとなった。この作品を観劇し思うところを以下に記す。

 

癩王のテラス (1969年)

癩王のテラス (1969年)

 

 

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三島由紀夫の作品には特徴があり、自身が述べてもいるように、何も語らないことを目的として創られている。作中の主人公が見舞われた様々な苦役、呈した疑問に対する答えは、その確固たる答えを得たと思う刹那、次に続く段落でその全てを覆されてしまう。言葉を「白木のような」身体を貪る「白蟻」に例え、その浸食作用を強調する。対立概念の拮抗と減殺の課程を縷々とした流暢な文体で綴る。

 

自身の思索する孤独な夜に、思考の枠を限界と思われる際まで押し広げ、確固たる思想ー行為することを微塵も揺るがすことのない絶対概念ーを得んがために逡巡し、その際から迸る警句のような文章をみると、夜空に展開する星座を見る時のようなある敬虔な感じに見舞われる。

 

しかしそうした星を見た時に、自身の内にその星空が投射され、我を忘れ宇宙の大きな広がりを内に感じていた瞬間から、不図我に還る時、相容れない何かにぶつかる。それが身体であり、感覚であり、感受性なのであった。

 

類推から類推への天掛かる階梯を上り詰めた果てに、絶対に行き着くはずであった。しかし括弧たる絶対概念に到達する手前で、生きるために人間は行為することを余儀なくされる。絶対とはー三島によれば無、無音、無言なのであった。脳神経系を通過する課程で浸食されない、別な言語を探し、それを身体に求めた。自らの思考をできるかぎり排除し、行為することで膨れ上がった筋肉に、身体からの答えを「見た」。しかし、三島の文章のところどころで、氷塊されない疑問がそのまま空を舞っている。それをこそ三島は「私」と呼び、ウロボロスの環の中にそれを「見る」はずであった。

 

三島は音楽を恐れると記す。始めの一音の響きは、後に続く旋律を否応無く想起させる。例えばそれは詩のようでもあり、連想から連想へ、類推から類推へと思考はその羽を大きく広げ、高みへと飛翔し続ける。しかし相も変わらず人間はその生息域を地上に求める動物なのであり、足底の感覚がー地表に結びつける感覚がー人間を支えている。

 

思索を捨て、運動の後の僅かな瞬間に、三島は存在する感覚を得たとしている。その時見た景色と、そこに吹いていた風と光とその質感を鮮やかに記している。何も手にすることなく地表に立ち、自分と世界の在ることを穏やかに感じていた、その心身虚脱、空虚にも似た僅かな一瞬ー

 

一切が無、いずれ無に帰する、死は逃れられない運命と言えばそうであるが、人間の全て、思考と行為の全ては、肉体と精神は、相容れず互いの機能を間断なく減殺し続け、消滅という帰結に辿りつくまでの道のりを牽引していくだけの装置である、とするならば、その装置は何故、今、ここに創られたのだろうか。

 

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「癩王のテラス」は、「絶対病」に罹った王の物語であると、三島は解説する。頭でものを考え、世界の一切を理解するために、その窓ーテラスから世界を凝視していた王の一生は全てを得ようとして全てを失い、そこに全てが開示されるーという二重背反を登場人物の全てに負わせた悲劇である。それが「悲劇」となるのを三島は必然とした。

 

演劇をよく知るわけではないが、この演劇を演じる難しさは観ていてよく伝わってきた。長い台詞は口語体ではない難解かつ壮麗な無数の言葉で彩られており、それを間違いなく言うだけでも常人には難しい。ともすればそれらは口舌を滑っていき、口先だけの言葉に鷹揚を付けても実感が伴わない。語調というものは、身体を通過することで形を得ていくもののような気がする。役者は、そうした言葉を扱うことへの配慮と共に、台詞に添う動作で配された役を表現することが要求されている。言葉と動作の調律をどのようにとるのか、それはプロフェッショナルでなければ解らない。

 

私がこの演劇に興味を持ったのは、原作が三島由紀夫であることと、宮本亜門さんや鈴木亮平さん、中村中さんに関心があったからであった。鈴木さん演じる王と、中村さん演じる王妃の対比はー他名を挙げないキャストも素晴らしいと思って観たが、特に役に染まっていることに感動した。この作品の主題が演者にも観客にも直接的に関与することを逃れられないものであったから、観ているだけでも過度の集中力を要するためにただならぬ疲労を感じ、実際に帰り際に漏らす観客の声からも同様のことが聴かれていたが、そうした劇を何度も繰り返し演じるというのは、常人から観て超人的なことのように思えた。繰り返しがあっても、演劇はその一回に始まりと終わりがある。演者は「始まらせ、終わらせなければならない」。

 

主人公を演じる鈴木さんを観ていて、王の凱旋から始まった物語は、その王の帰還を表現するにあたり、まるで散歩から帰っただけのような、若々しさと何にも染まらないという「王らしさ」のない導入の創り方が、終盤の「青春、美、若さ、現在」、「私がバイロンだ」ーと叫ぶ肉体を際だたせるためのコントラストであったことが、この演劇全体を知る上で特に納得のいく演出であった。

 

鈴木さんがこの感想を読まれてどのように思われるかわからないが、最後の台詞の一瞬の間に、鈴木さんの現在が懸かっているように思え、それが一層この劇の感動を厚くしたと私には思われた。鈴木さんがこの役を、一回一回に入魂し役を演じきる、ということを目指しているような、そうした気迫を感じ、感銘を受けた。

 

主人公だけでなく、主要なキャストはそれぞれに、両眼を見開き力を込めその役の全身を物語る一場がある。会場に響きわたったそれらの言葉と、全身を投じての表現が、幕の降ろされた後に、観客それぞれの内にどのように反響しどこへその収束をみるのかーその余波をどのように追うのかーというのが、演劇を愉しむもう一つの要素であるのかもしれないと思う。

 

幕が上がる前にあったのは、簡素な土気色の土壌を模した平面であった。抑制の効いた必要最小限の舞台装置が、役者のそれぞれが持つ主題を際だたせ、劇中の様々な展開を経て、終幕の後に再びその平面の静けさを見た時に無常を感じるような演出であったことも、この作中の悲劇を物語るに十分であった。

 

久しぶりに観劇し、日常から離れたところから現在を俯瞰するというような、普段には得難い濃密な経験をさせて頂いたことに、この演劇に携わった全ての方へ感謝をお送りしたいと思います。
素晴らしい作品でした。
有り難うございました。