鏡花水月

キョウカスイゲツ

時の断層

旅の途上

 

地図を持たずにその土地を歩きたいと思っていた。

 

通い慣れた道は、順路や距離を意識に上らせることなく歩むことができる。速度計算をせずとも、時間経過の大凡の見当がつく。
そんなふうに、歩いてみたいと思っていた。

 

初めて踏む土地の、眼にする全てが鮮烈な印象を残す。その瞬間が拡大し、時間の歪みが生じる。息が詰まるか、あがったままか、いずれにしてもその瞬間がもたらす痛みは、碇のように無意識の底に沈み込んでいく。

 

 仕事の合間に俄に生じた空白のような休日に、幾度もその道筋を思い描いていた場所へ、行かないでいるよりも行く方が楽であるような気がした。

ここで言う「楽」とは、無理にー最もらしい理由や必要がないとしてー抑圧しているよりも、自力で起こした現実に向き合う方が呼吸がし易いという意味である。
無意識の底に沈んでいた記憶が、突如現実として浮上する。

 

 

何度行っても悲しい気がするだけだと思っていた。

それにも増して、何度行っても美しいと思った。

 

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見たいところしか見ていない。快いと思ったことしか記憶しない。そのような無意識と意識の狭間にある選定を経ているから、美化されているだけなのではないかと他方思う。高々数回その土地を訪れたというだけで、何を解るというのか。

 

以前この場所を訪れた時、川面から観る土手の桜が綺麗だと、船頭さんが言っていた。それが思い起こされる時、桜が観れるといいとも思っていた。しかし実際には、桜に強い思い入れがあるわけではない。いつからできた風習なのか、桜の下に汚物を散らすような騒ぎには眼を背けたくなる。桜ーと思ったのは、その船頭さんが桜の時期に客へ配慮することとして、桜の下に来ると話すことを止める、と言われたことだった。「折角の桜にお客さんから五月蠅い、と言われるからね」ー水面の静けさに桜を眺めることは、何故か理にかなっている気がした。

 

 

松陰神社脇に、桜が連なって咲いているのを見つける。桜の時期に来たのが初めてであったから、これまでそれと気がつかなかったようだ。神社の脇に細い川の流れがあり、それに沿って「旧道」と呼ばれる道がある。

 

何故「旧道」なのかといえば、おそらく東光寺に至る参道として、藩政の起こった当初から作られた道であるからのようだった。松本村も、その旧道から発展していったのかもしれない。

 

旧道には無数の桜が植わっていた。満開の花をつけた桜が、大振りな枝を小川に差し出している。無風であるのに、音もなく散る花弁が風を描いている。

 

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前を行く婦人が不図足を止め、眼下の川の流れを覗き込む。

目を細め、口元には愛しいと言わんばかりの微笑を浮かべている。
視線の先には、川面に堆積した桜の花弁が波を縁取り、滝を象っている。
婦人はいつまでも立ち止まっている。端正な横顔をその場に相応しく思い心和む。

 

旧道を登った先にある土産物屋では、私が歩いていることをしきりに心配される。バスの停留所を示したり、何なら送るとまで申し出てくれる。
適当な答えが見つからず、歩くのが好きなのだ、と言っておく。
旧道の桜が見頃だと言うので、その桜を見ながらここまで来た、またその桜を見ながら帰るつもりなのだと伝える。俄に店内に見えない旧道の桜がが浮かび、店員は納得された様子で表情を緩ませる。

 

ここでなくとも、史跡を巡っていると、方々の土地で案内すると申し出てくれる方に出会う。何故その先人のことを知っているのか、と言われる。まだその先人は生きている、そう言って眼を見返す強い眼差しに出会う。

 

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旧道の脇を流れる川の名を、月見川という。
東光寺はその名の通り、藩の東側に位置する。夜半旧道を行く時には、自然昇る月を見上げる形となる。かつて夜道を照らす明かりもない頃には、月の光が一際明るく川筋を照らし出したことだろう。

 

昔の人は、名付けるのが上手であったと思う。
海岸に散らばる無数の貝殻一つ一つに、動植物や人体の一部を想起させる名称がついている。手のひらの中の小さな貝の一片が、様々のことを物語ったのだろう。

 

以前菊ヶ浜を訪れた時、道行く地元の方と思われる女性が歩み寄り、小さなものを手渡して行かれる。「もっと大きいのもあるのよ」。かけられた言葉はそれだけで、女性が歩み去った後、私の手のひらに二片の桜貝がのっている。
その時は眼を凝らしても見つからなかった桜貝が、海岸を歩いていると無数にある。赤子の爪のような、仄かに赤みがかり、透き通った小さな貝殻は、桜の花弁とよく似ていた。のばした手の先にあったのが貝と見紛った桜の花弁であることが度々あった。

 

薄紅色の貝の一片を海に放ると、透度の高い水中を舞うように揺らめき、沈んでいった。

 

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手持ちのカメラのレンズに傷がついているから、特に日中撮った写真に影が入り込んでしまう。だからということもあるが、真昼の日差しにある菊ヶ浜を自然避けるようにしていたのかもしれない。今回は無計画にここに来て、足の向くままに方々歩き回った。先ほど乗ったバスで、席を譲ってくれようとした子供たちが、流木を持った年長の少女を先頭に、数人の男児を従え浜辺を歩いていく。強烈に白い砂浜との対比が、映画の一場面のような鮮烈な印象を残す。

 

バスの車内では、海を見ての幼い兄妹の会話が続く。海を初めに見つけたのが自分だと主張するような口振りの兄に、海に入ったら溺れる、と妹が応戦する。泳げばいい、と兄も負けない。そもそもの発端がどこなのか解らない会話を、聴くともなく聴いている。

 

浜辺に佇んでいると、不意に現れた旅客らしい中年の男性が、喉を振るわせ歌い始める。その気持ちが何処か解るような気がした。
余りにも美しいものを眼にした瞬間というのは、祝祭にも似る。
男性は何に向け歌っていたのだろうか。

 

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無計画な旅には、予期せぬ事が多く起こる。
目的地までの経路に海岸を挟んだために、時間が狂う。
止むはずの雨は長く止まず、塗れた石段に足を取られる。
霧に霞む山並みが美しい。雨の後の晴れ間は、景色に劇的な変化を起こす。

 

夜明け前から出かけ、指月山をある時は見下ろし、ある時は見上げ夜明けを待つ。

 

旅先ではあまり眠れず、食欲もない。昼夜では身体の在り方が違う。繰り返される昼夜の変化を、身体はさも自然に受け入れている。夜明け頃特に重く感じられた疲労は、朝日を浴び花を眺めているうちに跡形無く消え、新たに生じた活力を感じる。
思うに変化というのは、意識にのぼる頃には遅すぎると思う。
日常様々な場面で、「変わろう」、「変わらないといけない」、「変われるかもしれない」、そんなふうに思う。しかし、変化というものはそのように捉えることができないものであるのではないだろうか。

 

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幕末当時からある建物を訪れると、管理者が中へ招き入れてくれる。
茅葺きの屋根が葺かれ、間口は狭い。
鴨居が低いのは室内で刀を振れないがための配慮で、建物が当時からある証拠には、壁に槍を掛ける設えがある。武具が生活空間にあるというのは、こうして現実として対面してみると、その意味や重みがのし掛かってくるように思えた。

 

玄関にある雨戸は、後に据え付けられたものであるという。当時は外と内の境には、障子戸一つだった。冬には冷え込みが厳しい。

当時は足袋すら用意できないでいる者が多かった。暖房といっても火鉢くらいしかない、そうした厳しい環境の中に当時の人は生きていた。

 

「だから、敢えて上がってみて下さいって言うんですよ。でも大抵は上がらずに縁側に腰掛けておられますね。冷えるって言ってね。だけど・・・体験ですよね」

 

縁側は幅が広くとられていて、住人が幾たびもそこに座った名残を示すように、緩やかに傾斜し日に温もっている。俄にそこに腰掛けていた人の背が思い浮かぶ。当時の人の暮らしに思いを馳せると、腹のあたりに重みを感じ、息が詰まる。

 

「庇が長いからですよ。当時は雨が濡れ縁を濡らさなければ、障子は閉めませんでした。風通しがいいから、建物が長持ちしますね。昔の人はよく考えていましたよね。ただ石を組んで、その上に建っているだけなんですけど、崩れもしないですしね。窓が広いでしょう。窓を大きくとって風を入れていたんですよ。風が通れば痛まないから」

 

今では建築物の免震対策偽造が話題となり、住むだけで病気になる居住空間の出現する時代となった。

 

「壁もよく見ると真っ直ぐじゃなくて歪んでいるでしょう。それでもそのままで成っているんですからね。面白いでしょう」

 

障子紙が所々破れていたが、その管理者が上手く補強されていた。張り替えのための手当がないのだと少し愚痴を言って笑う。破れていたら、寂しい気がするだろう、だから穴を塞いで下さって良かったと伝え、お礼を言い立ち去る。本当はもっと聴きたい話があったが、胸が詰まって出来なかった。

 

 

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東光寺に参詣すると、紅唐子がまだ咲いているかもしれないと受付で教えて下さる。前回来たのは椿祭りの頃であったが、境内にある椿は記憶にない。紅唐子という京椿が境内に植えられたのは1,600年代とも1,700年代とも言われる。不図思いついて落ち椿を故人の墓に手向ける。花を手向けたいと思っても、その花をどこで手に入れたらよいか解らないでいた。

 

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雨天の東光寺も趣があったが、翌日晴れたので再び詣でる。昨日とは違う受付の方が、「お客様にとっては、静かで良いでしょう」と少し皮肉って自嘲気味に笑う。

 

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静けさというのが得難いものとなったことを、この土地の人は知らないのかもしれない。自動車の排気音、列車の車輪の軋む音はどこにいても響いている。誰もいない道を人が歩くだけで、携帯電話での通話による騒音が生じる。静かにしなさいと子供に言うが、静けさというものを知る子供がどの位いるのだろうかと、そんなことを思う。

 

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数度訪れたというだけで、このようなことを言うのは間違っているのかもしれないが、体感するところ、萩は数十年の時間を後から追っているように思える。少し言葉を交わしているだけでも、その言葉はただー機械的に口から生じているだけではないことがわかる。地方でも都市部にいると、都市の縛りが人を霞ませていることがよく解る。萩から出たことがなく、萩が好きだと語る初老の男性は、萩の暮らし難さも闇のような部分も知りながらそのように言う。近くも遠くも同時に見ているような、何とも言えない眼差しを向ける。

 

故人の手紙文をみると、筆跡の乱れは筆が割れたのだ、寒さに手が悴んだのだと、細かい注釈がついている。何故そのようなことを敢えて記したのかと言えば、本文の文意のみならず、その筆跡がその人の全身を映していたからだろう。その人の置かれている環境と心情の全てが、例えば微かな筆跡から自然漏出されていた。かつての紙面上の遣り取りは、現代のような動かない情報の遣り取りではなかった。

 

この土地の人との関わりに何を思うのかと言えば、そうした言葉の遣り取りが、体感を伴うものとして感じられるということである。

 

例えば、荷物が重そうだと思えば、戸を開けてくれる。
そんなことはどこでもあるだろう。
しかし、その間にその人固有の経験と無数の言葉が挟まっている。
その人の表情や振る舞いから、「差し出がましいことをしているだろうか」、「仰々しいとして気分を害されはしないか」、そのような配慮が、身の振る舞いや言葉遣いから感じられる。それがここで特有のものであると言いたいのではない。そうした遣り取りを感じられるだけの空間的な広がりがあるということである。
会話を言葉のキャッチボールなどと表現されることがある。
人と対面した時の遣り取りというのは、そうした端的なものに集約されるものではない。そうしたことを改めて思い起こされる。
情報過多な時代では、それらを峻別することに労を取られる。
だが、その場に於いて何が大切かということは、自ずと見えてくるものではないだろうか。

 

私から見て、数十年の「遅れ」ーが生じているように見えるこの土地は、そしてここに限らず現代が「古さ」を理由に安易に捨ててきたものを保つ場所と人の在り方がーそれこそが次の時代を先駆けていくだろうという気がする。

 

私はこの土地に、単純に「現実」と名付けているものを、改めて見直してみたいがために訪れたのではないかと、顧みて思う。