鏡花水月

キョウカスイゲツ

星を射る(二)

風の行方

f:id:lovrl:20160306034145j:plain

 

風が何処から来て何処へ行き過ぎていくのか知らない。
頬に触れる微風を快く思い、過ぎ去ることを省みない。それは恰も鳴り止んだ音楽の余韻を聴くようなものである。

 

無風であることを無風であるというのは、風を知っているからである。
全くの無音は痛みを伴い忌避され、感覚には馴染まない。静寂と呼ぶものには聞き取れないくらいに微少な、ある音が含まれている。音楽と運動が分かちがたいものであるように、あらゆる動作は底流を流れる韻律に沿い、静まりかえる心は静寂を聴く。


夜空に瞬く星の輝きは、文章の間隙に散りばめられた警句を読むが如くである。
澄んだ夜空の、純正で濃密な闇にこそその光は冴えわたる。
ところで、浮世絵に星が描かれていることは希であるという。
星の瞬きというが、月に面を見るようには、星に面を見られないということかもしれない。花鳥風月、日本文化に不可欠であるこれらの要素は、その花鳥風月に映し出される己を見出すが故に、己に近しいものとして身に馴染み、文化としての発展があったのかもしれない。

 


自己の創世

 

f:id:lovrl:20160306034738j:plain

 

個性は、常人理解の範囲を超えるほどであるならば、それは個性とすら言わないーという趣旨のことを、かつて養老先生は言われた。理解不能である人間は、社会との関わりを持てない。従ってその存在を「個性」として社会の中に位置づけることができない。このため、近年「個性的」であると表現されるところの実体は、常人との微少な差異を誇示することであるとも言える。個性の伸長が過ぎれば、多くは社会から均されることになる。個人は社会からの介入を嫌い、自由の保証を望むのが、その理由になる。個性化と没個性化の差異は殆どない。

 

また日本人が「私」という時に、意味としては「家」を指した長い歴史の中で、「個人」は西洋のそれと意味を異にしている。そのことに無自覚に「個」を言うところとは、また「個性」を表現することというのは何を示しているのだろうか。

 

例えば近年普及したSNSFACEBOOK等は、「個人」の「個別な」或いは「個性的な」生活の一端が表現されている。しかしそれも多くの賛同の得られる情報の開示、つまり同一の価値を象る方向へと牽引されている、という。
また、近年の情報過多な時代では、「最新の情報」が注目を集めると共に、絶えず発信し続けることでその価値の安定性を保つ傾向にある。
更に、人工知能技術、センシング技術の発展が、情報の選択の幅を狭めている。

 

情報とは過去で、最新の情報は最新の過去である。最新の情報を得んがために電子媒体に釘付けになっている様は、崖に向けて後ろ向きに歩んでいるようなもので、真っ先に崖から落ちるだろうーとの趣旨の養老先生の発言は的を得ている。


つまり、「多数の賛同を得られる個性」を求め、情報を「発信し続ける」ことに価値が置かれ、「過去」に囚われ、「自分好み」を求めるー
ここから未来へ向けどのようなビジョンを描けるだろうか。

 

ここに自己を省みることや、世界観の構築や、様々な事象に多様な価値を見出すことーつまり現実の行方ー個ーが見えないのである。

 

意識とは要するに「点」である。意識に内容を与えてしまうと、どうしたって、その内容には、外部世界、感覚世界との関係が生じてしまう。だからそこにそれぞれに人の違いが出てくるだけのことで、それは意識自体が本質的に「違う」ことなんか、意味していない。(中略)
それなら、「意識とは本当に自分だけに留まっているのだろうか」という疑問が生じる

「意識は独立か」(無思想の発見) 

 

この文章の後には、電子媒体の普及する理由として、意識では明白に理解できない生身の人間を忌避しようとしているのではないか、という趣旨の文章が続く。電子媒体から得られる情報の方が、意識が惑わされる余地がー脳が「錯覚する」余地がー減少するからである。

 

人間を捉えるのは難しい。言葉を用いては更に難しい。言うことと行いが違うことは、全ての人間が経験していることなのではないか。自分を表現しようとしても表現し尽くせない。他者をして尚解らない。どころか、他者の行いを見て自分の脳神経が興奮するー錯覚するーことが生じれば尚自分は見えなくなる。このため対人関係に煩わしさを感じる。

 

しかしここで電子媒体上に表現される「個」のみを重んじ、フォトアプリでかけがえのない「証拠写真」を掲示する事に全霊を尽くし、仮想の「歴史」を創ろうとすることにー「充足」を「表現する」ことにー人生の比重の多くを傾けているとすれば、そこにどのような意味が生じるのだろうか。


以前「LIFE2.0」というゲームに熱中するあまり、現実破綻を来した人間のドキュメンタリーがあったが、それに追従するようなもののような気さえする。

 

「個」をどのようにとらえ、どのように構築すべきなのか。


例えば、小説、文学からはどのようなアプローチが可能であるのか。

加藤氏は「孤独」を挙げる。

日本の後進性を、市民の社会が未成熟であり、市民社会が定まっていないこととするならば、成熟した市民を描く小説は成り立たない、との言明を退け、以下のように記す。

 

小説が本来社会を描くものであったにしても、小説の中で常に人間を社会的な相の下に描く必要はなく、人間を孤独な相の下に描くことも、できるのではないか。ことに今世紀のヨーロッパのある作家たちが用いた方法で、社会的身分や歴史的条件にかかわりのない人間の孤独を追求すれば、日本社会の後進性は、日本の小説家にとって、少なくとも障害とはならないのではないか。

「人間の孤独」(文学とは何か) 

 

この「人間の孤独」を相対的(対社会的)な孤独と絶対的(非社会的)な孤独とに分類し、近代文学の可能性として以下のように記す。

 

リルケからジャン・ポール・サルトルにいたるヨーロッパ精神の実存的孤独は、それが世界戦争の産物であり、われわれの戦後に似た歴史的条件のもとに成り立つというだけで、われわれに意味があるのではなく、むしろそれが歴史を超えた人間の永遠の現実に接しているからわれわれにとっても意味がある。そのような絶対的孤独を通じてでなければ、われわれはわれわれ自身の歴史的制約をまぬがれがたいし、日本の社会の後進性にかかるもろもろの限界の外にも出られないはずです。もしわれわれが自己の内部へ深く降りてゆくことによって一般に人間的なものを探りあてれば、ーこれはもう単に小説の問題ではありませんが、小説にいかなる社会を背景として用いようと普遍的な文学をつくることができるはずです。また日本の社会として描き得る可能性もその時にはじめて出てくるのではないでしょうか。出てこなければ、今日の日本の文学に希望はないだろうと思います。

近代文学の可能性」(文学とは何か)

 

f:id:lovrl:20160306040852j:plain

 

 

「天才」という言葉が既に死語なのではないか、と養老先生は言われたが、「孤独」という言葉も死語であるような気がする。

 

これは、優れていることと、ひとりでいるということは、その価値を失ったということなのではないだろうか。なぜならば、対社会的な存在としても、非社会的な存在としても己を立てることができないからなのではないか。

 

日本の思想が「自然という実体」を基礎としていることを、すでに述べた。それが「実体に対する暗黙の確信」を維持する。その自然をこれ以上破壊してはならないし、破壊すべきではない。
話は山林にかぎらない。近海の荒れ方はおそらく想像を絶するであろう。しかし海のそこは日常目に見えない。見えない以上、感覚はなにもいわない。以前はどのように豊かだったか、それも見ていないからである。土壌の生態系がどう変化しているか、これも見えない。見えないから、平気ですべてをコンクリートで埋めてしまう。逆にそれを救うのは、見えないものを見る目、概念世界である。そう思えば、感覚の世界から概念の世界へ、概念の世界から感覚の世界へと、「健全な」往復を繰り返すしかない。それを真の「科学的な態度」という。

「自らを知る」(無思想の発見) 

 

「現実とは、その人の出力=行動に影響を与えるもの」

「現実とは何か」(無思想の発見) 

 

この「現実」の定義のもと、個を確立し、行動として実体験に下ろし「生きていく」ために必要なのは、自然や神ーに対する絶対的孤独を経験し、言語を扱うということについて、行為として行動化を図ろうとすることに対して、「身をもって知る」ということなのではないか、と考える。