鏡花水月

キョウカスイゲツ

「明暗」

夏目漱石の未完の絶筆と言われる「明暗」。
最晩年の作品である。
この作品を初めて読んだ時、流石漱石だと思った。
何が流石なのかと言えば、おそらくここまで描けば作品全体の構成が見渡せる、そうしたポイントまで漱石はこの作品を描いておきたかった。巻末まで読んだ後、そのような意思を感じるように思ったからである。

 

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しかし最近不図思ったのは、もしかすると、この作品は「未完」でもあるが、同時に「完結」しているのではないか、ということだった。
言葉の連なりとして表現された部分の、どこを「明」とみるかで「暗」となる部分は自ずと決まる。「明」を「明」たらしめる「暗」を、すなわち語られなかった部分を解読していけば、自然完結した文末までが見通せる。
そうした「つくり」であったのかもしれないと思う。

 

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私たちは明るい部分を世界の全体だと思っている。「白日に晒す」などの比喩があるように、疑いようもなく明白なことは全て光の中にある。
しかし、明るみに出た世界のルールは闇の世界では通用しない。視野には限界があり盲点をも含む。またしばしば遠近すら見誤ってしまう。明るみに出た世界を見るとき、私たちはそのどこを切り取って見るか(焦点化するか)の選択の自由が与えられているように思う。己の思うままに世界を切り取り意味付けする。

「見る」という行為には、そのような傲慢さがある。

 

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闇の中のルールを明の世界に適応するとどうなるか。
私たちは、光の中にいてー都市化の進んだ社会の中にいてー「この明るみに出た世界はどこまで続くのだろう」と不安になることはない。足下に地があるか否かを疑うことはない。目の前にあるものが物体か空間かに意識を向けることはない。全て言語化した後、言葉は無意識の世界に投じられる。それが「常識」を作る。つまり「分かりきった世界」である。私たちは明るみに出た世界を言葉で名付け続ける、そうして自と他を分けることで唯一無二の存在である証を欲しがる。「「私」は確かに存在している」ことを確認し続ける。

 

闇の中では、自他の区別はさほど重要ではない。闇がどこまで闇なのかは測るすべがない。明るい世界で、それは「それそのもの」と言う時、闇の中で同じ表現をすれば、それはまるで「詩的表現」でもあるかのように虚ろに響く。
「あれ」も「それ」も自分に関連がないなどと、どのように区別するだろうか。
自他の区別をーあえてーつけようとするだろうか。
闇の中で「生きること」、「生きようとすること」は重要な意味を持つだろうか。闇に生まれ闇に死んだ時、自分が個体として世界と分かった一個の人間であったことを、誰かに忘れないでいてほしいと思うだろうか。
闇の中で自分は「自分」であり、「自分であり続けること」に執着し、その「個別性」を尊重してほしいと願うだろうか。

 

闇の中で言葉は通過する響きである。響きは反響し耳に残る。その響きから世界を如何様にも立ち上げることができる。その世界に触れた時、初めて誰かと出会うことができる。誰か、それは自と他という個体差のある分かたれた存在であると同時に、己の一部である誰か、ー或いは誰かの一部である己ーなのではないか。

 

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この「白日に晒された」世界は不完全で、自分が全くの安心を得られ居場所とするところなどありそうもない。しかし同時に未明の世界はー意味も価値も生じていない分ー完全で、自分はその完全なる世界の一部であるとも言える。
己という存在は未明の世界で安らぎ、漂い、移ろい行き、大きな循環の一部となる。