白露の己が姿をそのままに紅葉に置けば紅の玉
「CHOREOGRAPH LIFE ー "Being There"ただそこに在ることの深さ」
昨年鎌倉建長寺で開催された、玄侑宗久氏と森田真生氏の思想と禅の実験的トークセッション「CHOREOGRAPH LIFEー"Being There"ただそこに在ることの深さ」を振り返り、その印象を記す。
春は花 夏ほととぎす秋は月
冬雪さえて 冷しかりけり (道元禅師)
この「冷し」は冬のみならず、四季にかかるのだと玄侑氏は言われた。
「すずしい」という言葉には、様々な語感がある。
冷めて快い、清らか、平然としている、潔い等である。
それらの言葉からは、留まらない、手放す、手放していく、というのが共通する感覚として思い起こされる。
そこには感情の起伏もなく、ただ通過していくことを改めて知る思いがする、過ぎ去ることを顧みず愛おしむ、そのような心持ちを思う。
「今」という瞬間を掴むことはできない。
「今」を意識するとき、「今」は既に「過去」になっている。
「今」を「現実」に置き換えても同じであるように思える。
リアルだと意識に上る現実は、同じ場所に留まってはいない。
私たちは目の前の現実を「ありのまま」だと思いがちである。
しかし「ありのまま」をいうのは人間という生物の、己という偏った意識が捉えた、あまりにも限局的な世界の一片である。そうした己の限局的な意識が、物事の是非を判断することなど、本当の意味ではできはしない。
物事の発端がどこにあり、何を持って解決とするか、それはどのような「見做しをかけるか」という捉え方に帰する。
玄侑氏は更に言う、
「因果律で物事を言い尽くそうというのはただの思考習慣である」と。
言葉、思考。人間はそれらの方法を用いて世界を自らに引き寄せようと努力を重ねてきた。その努力が実った暁には、世界を自らの内に飲み込み、如何様にも変幻することができるーそのように誤解を重ねてきたのかもしれない。
現状を打開しようと息み、居着く。当節の課題に集中することで視野狭窄になる。
意識して見る世界は、世界のごく一部である。意識から答えを出そうとする時、己の中で閉じられた世界には自然がない。自意識という閉塞した空間に囚われ息苦しさを感じる時、流転する自然に「冷しさ」を覚えることはない。
白露の己が姿をそのままに 紅葉に置けば紅の玉 (一休禅師)
全てを手放し、一粒の澄んだ露のように、ありのままの世界を自らの中に映し出してみたい。それが世界と融和するーこの世界の一部として存在するーということなのではないか。