鏡花水月

キョウカスイゲツ

日々

黒い月

岡先生の文章 『これは絵なのだから、言葉にしない方が良い』 はらりと繰った頁に見いだした一節に、立ち所に心を奪われてしまった。何と物の解った人なのだろう、烏滸がましくもそのように思った。 酒井抱一の絵に、「月に秋草図」がある。 後方に月、手前…

美の帰結

桜 突風に煽られた桜の、火花のように放散する花弁が視界を薄紅色に覆う。景色は夥しい花弁の隙間に霞んで見える。こうした光景を桜吹雪と呼んだのだと、不図そんなことを思う。目の前にした光景と文字とが重なり合うという経験に自分は乏しいのではないかと…

「癩王のテラス」

「癩王のテラス」 「癩王のテラス」は、癩病に見舞われた王の一生を綴ったフィクションで、癩病がかつて業病と言われたように、人間の業を描いた、三島由紀夫の創作した最後の戯曲である。この「癩王のテラス」は、小説「仮面の告白」と共に自伝的な要素を含…

星を射る(二)

風の行方 風が何処から来て何処へ行き過ぎていくのか知らない。頬に触れる微風を快く思い、過ぎ去ることを省みない。それは恰も鳴り止んだ音楽の余韻を聴くようなものである。 無風であることを無風であるというのは、風を知っているからである。全くの無音…

星を射る(一)

「沈黙の聖人」 「私が「私」というとき、それは厳密に私に帰属するような「私」ではなく、私から発せられた言葉のすべてが私の内面に還流するわけではなく、そこになにがしか、帰属したり還流することのない残滓があって、それをこそ、私は「私」と呼ぶであ…

天上天下(二)

世界の果て 原子爆弾によって私たちが受けた被害のうちでもっとも大きなものは、家を失ったことでもなく、財産を焼かれたことでもなく、多くの血のつながる者や友を殺されたことでもなく、体が不自由になったり、病気になって働けなくなったことでもなく、実…

天上天下(一)

ありふれた風景 年が明け一月も過ぎようとしている。今年は年末年始と勤務で、正月は平日と変わらずに過ぎた。今時分同僚は家族と団欒していることだろう、そう思うのも悪くなかった。 子供の頃は正月が待ち遠しかった。亡くなった祖父の生前には、年末から…

白風

落葉 都心にある小さな神社の境内の隅に座り、参道に連なる銀杏を眺めていた。 季節は秋で、紅葉した葉色が美しかった。見るともなく葉の落ち掛かる様を眺めていた。銀杏の黄色い葉は無風の中、様々な表情を見せながら地表まで舞い落ちてみせた。その葉一枚…

私たちが既知のものについて知る、幾何かのこと(二)

河合隼雄の語る「愛」 (前略)コンプレックスの解消のためには、ある程度の危険を犯しても「対決」する必要がある。ここに「対決」と言ったのは、そこに相当に感情も動くので、なまやさしいことではないことを示している。それと大切なことは、その「対決」…

私たちが既知のものについて知る、幾何かのこと(一)

「一つ」を問う ヒトという種は何故存在するのか。 サルの「幼形成熟」という変異種が、「成熟」を押し進めた結果として、「幼児化」が進行していくのだろうか。シニカルに考えると、「幼児化」を志向する「進化」は、社会現象の中に多く見て取れる気さえす…

夏空の雲(二)

8月9日 戦争中に青壮年期を送った、いわゆる戦中派とよばれる人びとは、私の知る限り、戦争について語りたがらない傾向がある。誰しも大なり小なり、いやな思いをしたらかであろう。自分の戦争体験について語ることによって、いやな思い出を心の奥底からわ…

夏空の雲(一)

生命の所在 「言論の自由」ということを考えるとき、種々の法律は生きている人間に対してのものなのだと、改めて思わされる。事故、災害、戦争などで不意に死した人間は、死に際し言葉を残す暇もなかった。だが、近しい人の内に、死者が死後も語りかけてくる…

空を穿つ

果てのない問い 人間とは、自分の存在そのものに疑問を持つ生物であるという。しかし、そのことに自覚的に生きることは難しい。 自身の認識や行為その一々について、「そのように思う、そのような行いに及ぶお前は、一体何者なのだ」という鋭い刃物の切っ先…

「終わり」

出逢うということ 人と出逢うということは、考えてみれば不思議なものである。 毎日行き交う人々の、一々を数えようとすれば膨大なものになる。擦れ違いはすれど、行き合うということは希で、更に「出逢った」と感じることは、厳密に考えれば殆どない、ーも…

籠の鳥を放つ(二)

「持たざる者」 もしも人間が他の動物に劣らない強固な牙や爪を持つのなら、それを手がかりにーそれを本能に据え置いてー生き延びようとしただろう。ところが、人間は何も持たないともいえる状態でこの世界に生まれ落ちる。 「持たざる」ことを嘆き、自身を…

籠の鳥を放つ(一)

「物語」の始まり 良き指導者は「待て」が言える者だ、と何処かで目にした一文を、これまで幾度となく思い返しては、その意味するところを考え続けてきた。 「行け」や「行くな」の指示は理解しやすいが、「待て」という指示は何を示しているのだろう。 よく…

船を渡す

沈黙する海 人間を海に浮かぶ器に例えたのは、不確かな記憶によればゲーテだった。 確かに人間というのは、身体という無意識の海に、中に小さな脳の入る頭蓋という容器を浮かべている、というふうにも例えられるのかもしれない。 身体教育研究所所長・野口裕…

言葉の外

月に問う 夜道を行きながら月を見上げ、漠として思う、「今日は何事も無かった」と。薄雲の向こうにある月は、時折雲に隠れては再び現れる。雲間から光を強弱させる様は、思案顔をしているかのようにも見える。月は言う、「何も無いとは、如何なることなのか…

「この日の学校」in京都

「この日の学校」 「この日の学校」という他に類をみないタイトルのイベントの説明を以下に抜粋する。 ●この日の学校にこめられた思い 学校(school)ということばは古代ギリシア語のスコレー(schole) ということばを起源にもつ。スコレーとは、古代ギリシア…

声のない対話

「こっけい美」 この言葉を初めて目にした時、正直面食らってしまった。 「滑稽」に「美」を感じるとは如何なる感性なのかと思ったからである。通常「滑稽さ」に「美」を感じるということはないように思う。強いて言うと、チャップリンの作品に観るような、…

四季の巡り

四季について 四季の循環について意識を向けるようになったのはいつからだろうと思う。 春は散り急ぐ桜と共に瞬く間に過ぎ 夏は日差しの強さに疲弊し 秋は冬の到来を予期し 冬は吹き荒ぶ風で身体の芯まで冷え切り、ただ堪え忍ぶうちに過ぎた 私にとって季節…

「明暗」

夏目漱石の未完の絶筆と言われる「明暗」。最晩年の作品である。この作品を初めて読んだ時、流石漱石だと思った。何が流石なのかと言えば、おそらくここまで描けば作品全体の構成が見渡せる、そうしたポイントまで漱石はこの作品を描いておきたかった。巻末…

白露の己が姿をそのままに紅葉に置けば紅の玉

「CHOREOGRAPH LIFE ー "Being There"ただそこに在ることの深さ」 昨年鎌倉建長寺で開催された、玄侑宗久氏と森田真生氏の思想と禅の実験的トークセッション「CHOREOGRAPH LIFEー"Being There"ただそこに在ることの深さ」を振り返り、その印象を記す。

謹んで新年のお祝いを申し上げます。

Hatenaブロガーのみなさま、はじめまして。 amebloから移行し、2015年からはこちらでblogを展開していきたいと思います。 amebloから引き続きお読み頂けるみなさま、今年もどうぞ宜しくお願い致します。 年頭に向けた言葉 新しい年の初めに向け寄せられた、…