鏡花水月

キョウカスイゲツ

声のない対話

「こっけい美」

この言葉を初めて目にした時、正直面食らってしまった。

「滑稽」に「美」を感じるとは如何なる感性なのかと思ったからである。通常「滑稽さ」に「美」を感じるということはないように思う。強いて言うと、チャップリンの作品に観るような、独特のややシニックでもある笑いのテンポと型に、芸術性を感じるということか。

「こっけい美」とは、伊野孝行氏の作った造語のようである。

伊野氏は偶然目に留まったブログから、その存在を知ることになった。ブログにアップされている作品の数々に強い吸引力を感じ、釘付けになってしまった。伊野氏の挙げる「こっけい美」の語意は、その作品に最も説得力がある。

 

著書の中から次の文章を引いてみる。

私のこっけい美を主題にしたイラストレーションからは、沈黙と叫び声が共鳴した、奇妙な声が聞こえてくるはずだ。
そう、気まずさに言葉を失いながらも、叫びだした時みたいに。

 

表面的にはとぼけた味わいを基調としているが、作品によっては、背後のホットな衝動や、悟りきったようなクールな感情をつかまえることができるだろう。
まじめな人間は生き方がヘタなのと、私の絵がヘタなのは同じ理由である。
そういう意味において、ヘタであらねばならないという強迫観念から、ヘタを装うテクニックを身につけようとしている。

画面は時としてサイケデリックに殺気だち、人間の情、そのエグさまでを抽出するが、水彩えのぐ特有の効果がすべてを滲ませ、水に流そうとしている。
モノクロームのドローイングは私自身もっとも自由な姿勢で取り組んでいる。
描いたことさえ忘れていたものもある。
御覧になる方々にも、まったくストレスをかけることがないと思う。

 

私の漫画は、人間が薄い膜をつきやぶり、「人生」の中にさまよって、心理的な安定を失うまでの経緯を追うことがテーマになっている。

 

この文章からも窺えるように、イラストというものをここまで掘り下げて考える人の類を他に見ない。

何故伊野氏に惹かれるかというと、その作品の個性が包括する内容があまりにも豊富であることと、伊野氏の持つ芸術への哲学的感性に打たれるからでもあるが、私自身が幼少から描画が好きであることにも起因する。多少なりとも絵を描いていた者から見て、そこに容易に真似できない才能を感じるからである。

 

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「こっけい以外に人間の美しさはない」 伊野孝行著 HBギャラリー発行 2007年

「画家の肖像」 伊野孝行著 ハモニカブックス発行 2012年



私の場合は、芸術家になりたくとも、それを試みる前に自分の才能の無さを自覚し断念したクチである。こう書くとアッサリ諦めたかのようでもあるが、当時は非常な葛藤を生じて身体の変調を来した。

その位強烈に自分が目指そうと思った道であったから、時折描画への衝動を感じ、「趣味」と称してほそぼそと落書き程度のことは続けている。

 

かつて描画が生活の中心にあった頃から今も、漫画家の井上雄彦氏の作品が好きで、模写してはいた。その井上氏は、自身が漫画家となる経緯について、始めはただ人物の「顔」が書きたかったからだと、どこかで挙げられていた。

私自身もノートの端に描く落書きと言えば人物の表情であり、とりわけ笑顔が多かった気もする。人物の顔に固執するというのも不思議なものである。成長発達的に捉えようとするとまた長文になりそうな内容でもある。

 

そうした自分に最近ーしつこく続ける落書きを通してーある変化を感じた。それは相変わらず人物を描くのだが、とりわけ四肢、体幹の表現が人物表現の多くを決定づけるということである。もう少し言うと、その人物が、身体をどのように扱うのか、その表現である。

 

 

浮世絵を観る

美術館にも時折行く。最近は江戸時代の人物や文化に興味を持つせいか、その時代に関連する展示会があると行ってみている。江戸時代に栄えた絵画に浮世絵があり、幾つかの展示会に行ってみた。

 

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浮世絵の美は独特である。

江戸時代の浮世絵にある人物には表情らしきものがない。あれほど精密に着物の柄や装飾物が描かれている割には、奥行きがなく平面的である。人物のポーズは自然を欠き、それがどのような場面なのかというのは解説を見ないとよくわからないし、見てもまるでこじつけのような気もする。というのも、場面設定は現実感のない神話世界の話でもあるかのような気がするからである。

江戸時代の浮世絵に於ける人物は、美人画や役者絵が中心であり、ブロマイド的な意図で描かれたものも多く、美化、誇張的表現が用いられ、写実性はあまり重視されていなかった。大衆の憧れであった美人や役者を手にとって間近に眺めるという、いわば大衆のニーズに応える形で大首絵などの描き方も生まれた。

明治以降になり、浮世絵が社会情勢の描写というジャーナリスティックな役割を担うようになると、人物に生き生きとした表情や動作が描かれるようになる。そこには注目すべき点があり、それはそれ以前の浮世絵に見られなかった人物の瞳の輝きだけではなく、身体表現の豊かさにあると思う。

例えば鏑木清方の絵には、新聞の挿絵を描いていたという背景もあり、その場所で何が起こったかが一目で知れる。驚き、怒り、悲しみ等、それらの人物の反応や感情は、表情と併せて硬直した筋肉や大きく四肢を振り動かした様、或いは落とした肩、指の向き、等々の表現で場面の臨場感を強固にする。またどのような体型の人物であるかにも、それぞれの個性が出ている。標本的に同じ表情、同じ体型の女性が横並びになっている江戸の浮世絵の美人画にみられる人物表現とそこが決定的に違っている。それを美として採用したのには、現代の感覚からすれば個体差を徹底的に排除するところに、美の重点を置いたからなのかもしれないとも思う。

何故かと推測するに、一つには、美に普遍性を持たせるための配慮であったかもしれない。唯一のもの、変わらないもの、美にそのような要素があるという信念の表現かもしれない。一つには、個体差のない人物像から、鑑賞する側の思いをー各々の胸の内にある、他のどれとも代替のきかない個人の持つ美の感覚を想起させるために、ある個体として限定される要素を無用のものとして排除する、そうした制作者側の配慮であったからなのかもしれない。

示された一つのー記号のようにー象徴的な人物像から様々な意味や思いを想起するー例えば枯山水の庭のように。

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他方、鏑木のリアルな表現力からは、その場面とともに、その後の成り行きまでが見渡せるようでもある。

 

 

声のない対話

漫画家の言う、「人物設定が決まると、その人物が動き出し物語を牽引していく」という現象は、どのように起こるのか、これまで言葉で説明されても理解できずにいた。

しかし最近、自分が描く人物が自発的な意志を示し、まるで語り始めるのでもあるかのように、筆が走ると感じる時がある。本を読んで知った実在した人物の、実際に起こったエピソードの詳細や、それに至るまでの経緯について、自分が想像する以上に絵によって表現される部分がある。表現されたものを改めて見直すと、そこには描く前の場面や人物設定とは違うストーリーが隠されている。

 

それはまるで対話のようでもある。

 

それは私自身の内面という限られた範疇ではあるが、あまりにもリアルに感じる。
どのようにしてそれが起こったかと言えば、絵を描いていて以前と決定的に違うと思うのは、四肢体幹の身体表現を描く面白味を知ったことにある気がしている。
「面白味」の意味するところは何かと言えば、まず自分の内でイメージ化した(イメージとして固定化した)人物の姿を描くのではなく、描こうとする人物が描こうとする場面に応じて自発的に挙動を決定し、それを捉えるために描く、そこに面白味を感じる、という説明になる。

 

身体の表現がより表情を際だたせる、というのは「人物」だと評される存在にみられることのようにも思う。それが何故か、描くうちに答えが見つかるといい。

 

写真に例えるのならば、自ら限定したフレームの中に、自分の思い描く構図をなぞるように対象を納めようとするのではない。
予期せず目の前に展開された場面の何かに自分が反応し、その一瞬にフォーカスを当てたいという、その行為に似ている。

 

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こうした文章を書くという行為や、絵を描くという行為にはある共通した部分がある。

それは自分の内に起こることの客観的理解であるという気がする。

どうしてか知らないが、書きながら理解する、という方法を採用してきたのだということに、今更気づいたということかもしれない。

 

文章を書くのも、描画にも、特に明確な目的意識があったわけではなく、それを続けたのは単に自然であったからに過ぎない。生活の中に自然に溶け込んでいたから、それを何故行うかなどと考えたこともなかったのである。


多くの歴史小説を書いた司馬遼太郎は、「竜馬がゆく」の執筆の最中、自分の視界へと容易にフォーカスできない、暴れ馬のように制御の効かない坂本龍馬という素材を扱うことの喜びを語っている。実は私はこれまで司馬遼太郎の作品をほとんど読んだことがない。「竜馬がゆく」にしてもである。何故かというと、興味がないというのではなく、実在の人物を小説として昇華された作品として眺めるということができないからである。もしも読みたいとするなら寧ろ、その作品を執筆しながら故人と語り合った様々な対話の内容にある。小説として採用するに至った、或いは採用に至らなかったその決定までの対話の詳細を、ただ聞いていたいと思う。優れた歴史小説家であり、また研究者でもあった人物と、その作家の胸中に存在する実際の歴史人物との間に、どのような対話のやり取りがあったかは想像することもできないが、その秘密をそっと覗いてみたいと思う。

 

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まだ変更の余地は十分にあるのだが、私が描く落書きでは、坂本龍馬は、物言いも四肢も大きく、動きもダイナミックだが、肝心なところでは寡黙になる人物である。中岡慎太郎は照れ屋で頬を紅潮させる。四角張った肩を持ち、踏みしめるように歩く。即断し、行動化には迷いがない。西郷隆盛は後ろ姿と大きな手が、その存在の多くを象徴しているような気がする。見つめられた人物が眼を反らすまで、いつまでも正視していられる。吉田松陰は、砕顔というのでなく、よく笑う人物であった気がする。笑いには色々ある。瞳の色や目尻で感じるような、そうした笑いであったような気がする。高杉晋作はよく泣く。嘆くのにも様々ある。

 

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それらのイメージを、表情だけではなく、その多くを身体表現が支えている。イメージとして捉えられた人物が動き、語る。何を伝えたいのか、そこに自分の先入観を入れようとすると、人物はとたんに黙り込んでしまう。繰り広げられる会話が、自分に何を導き出すのかはわからない。自分がしているこの行為自体、どこに向かっているのかは正直なところわからない。だが何故かそこに生じ続けている変化に尽きない興味を感じ、それが自分にとって意味があると思う部分があり、描き続けている。


どういうわけか、最近になって益々わからないと思うことが多くなる。「大人」になるに従い、疑問に思うことは少なくなっていくのだろうと思っていた。だが「解った」と思うことが多くなるのではなく、寧ろ「解らない」ことが増えていく。しかも「解らない」と思うことが増えていくことに、どこか「自然」を感じてもいる。