鏡花水月

キョウカスイゲツ

旅をすること

旅の動機はわからない。私的な旅行などしたこともなく、また興味もなかった自分が、最近は史跡を巡っている。


きっかけは母を旅行に連れ出したかったからだともいえる。生計を立てることと育児とに人生の大半を費やし、贅沢もしないできた母への、せめてもの親孝行をしたいと思い、最近は長期休暇をあてて母を旅行に連れ出している。その母は、実の両親を旅行へ連れていきたいと思っていた。しかしそれも叶わぬまま両親は亡くなった。母がそれほど祖父母を旅行に連れていきたかった理由を知りたいと思うからかもしれない。

 

母方の祖父母という人は、対面した時にこちらが身を正さねばならないという気風を持った人達だった。高圧的であったわけでもなく、厳格であったわけでもない。ただ、眼はいつも澄んでいて、その眼差しは常に問いかけていた、「何故」と。行き先や旅程よりも、何故旅に出たいと思うかに重きをおく人だった。その祖父母に母は何と伝えて旅行へ連れ出したかったのだろう。


人が旅をする理由は様々ある。その理由を、私自身についてはまだ明確にはなっていない。旅を実現できる諸条件が整い、旅をしたいという動機があり、更に旅先の地が自分を受け入れてくれるからだ、と表向きにはそう思う。しかし、これほど情報化が進み、敢えて自分の身を知らぬ土地に運ぶ労を厭う気持ちが勝っていたかつての自分の気持ちと行動を、これほど変えてしまった理由は何なのかと思う。
今は結論を急ぐべきとも思えない。
話を進める。

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萩にて

今回の旅の行き先は、萩である。
旅先ではタクシーのお世話になることが多い。見知らぬ土地で、交通事情にも通じていない旅人にとっては、有り難い存在である。旅先の最新の情報も得ることができる。自然多く会話を交わす。
特に史跡巡りをしていると、その土地のタクシー運転手は歴史に詳しいことが多く、興味深い話も聞ける。

 

萩・石見空港から萩市内へ行くために、乗り合いタクシーを予約していた。空港玄関で待ち受けていたのは、立ち姿が一見教師のようにも見える佇まいの方だった。

「少し待ちますから」
とおっしゃられ、空港出口を全ての客が通り過ぎるまで待つ。要望があれば当日でも受ける様子である。何かそこには営利目的でないものが感じられる。予約すれば低額で空港から自宅まで送迎するサービスを提供されていることは知っていたから、そうした事前情報からそう感じたのかもしれなかった。
萩・石見空港を離発着する航空機は1日に2便しかなく、空席も目立つ。自然高速バスは廃止となり、それを補うために乗り合いタクシーの話が持ちかかったことがきっかけと、後に説明される。

車を発進させると、「小さな空港で驚かれたでしょう」と言葉をかける。空港に着いた時は既に日が傾き、空港を囲む山並みはシルエットになり闇に沈もうとしていた。辺りは薄暗く、どのようなところかも十分に判別できないでいたが、それでもその美しい山の連なりに感動していたから、運転手の予想に反するちぐはくなことを答えたらしかった。しばらく沈黙があった。

 

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旅の行き先と目的を聞かれ、萩の史跡巡りと答えると、関連する情報を教えてくださった。吉田松陰に関するお勧めの場所について色々尋ねていると、ふと言葉を切り、


「私たちは「吉田松陰」とは言いません。「先生」と言います。そう自然に言っています」


と言われた。それを聞いて何か安堵した。相手の意識が知れないから、無理をしてフルネームで呼び捨てにしていた。もうその気遣いはしなくていいと思い安心したのだった。


初めて行った土地で、初めて交わしたその地に暮らす一人の人の言った言葉が、その地の一般であるというのは言い過ぎである。しかし、運転手の言葉は気負いもなく如何にも自然であったから、素直に受け取ってもいい気がした。先人を敬称で呼ぶのを自然とする土地柄に羨望を覚えた。

 

その「先生」、吉田松陰に関する、最近気懸かりに思っていることを少し聞いてみた。村塾を世界遺産にするという動きについてである。「無理ですよね」と言うと「無理でしょうね」と返答される。運転手の意見は次のようになる。

 

かつて石見銀山世界遺産登録の際は盛り上がり、観光を促進させるための施設も作られた。しかしそれも一時的なもので後に廃れてしまった。そもそも世界遺産というのは説明不要のものである。例えば安芸の宮島のような、一見すれば感動をもよおし、説明が無くとも唯一無二のものと知れるようなものである。石見銀山が史跡として重要でないというのではない。説明すればその価値が知れるし納得もいく。しかし世界遺産としてはどうなのか。そして村塾も同様なのではないだろうか。

 

例えば現在放映中の大河ドラマなどで萩が認知されるのは嬉しい。興味を持って来てもらえるのであれば地域活性化にもつながる。だが世界遺産登録には多大な資金を要する。それは税金から捻出されている。


他にもある。我々観光タクシーは足の不自由な旅客のために、その足となり観光地を巡っている。下車して土地を観て回れない人のために、速度を落としてできるだけ目的のものの近くへ車を寄せて走行することもある。一度世界遺産登録されれば、進入禁止となりそれも叶わなくなる。そうした事情も知ってのことなのだろうか。

 

世界遺産登録というのも、観光ということでしょう」
そんな言葉のやり取りが寂しくさせた。

 

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現在松陰神社及び松下村塾には早朝の時間帯から観光バスが次々に乗り入れ、旗を振り声を張り上げて村塾の歴史を語るガイドと共に観光客が押し寄せている。村塾の内部には、かつてはなかったであろうと思われる、村塾から輩出された有名人物の写真がーそれこそ「説明的」にー掲示されている。「先生」の墓標の前を笑いながら多くの観光客が通り過ぎる。村塾の前は撮影スポットになっている。

 

旅をする人の目的は様々である。余暇を満喫しようという目的であってもおかしくはない。史跡を前にしての態度の是非を言いたいわけでもない。かく言う私ですら、ほんの少し前まで歴史を重んじてきたわけではなかった。


ただ、「知る」ということの意味と重さをこのようにして実感するのだということを知った、そのことを記しておきたかった。

おそらく松陰の思想や松陰神社に親しんできた人々からみて、観光地から遠く離れたところに松陰神社松下村塾は位置している。一時的な観光気分で汚して良いところではない。

 

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そうした話をしているうちに、日は暮れてしまった。辺りの景色は闇にのまれ、街灯すら乏しい地方道では、現在地を探る術はなかった。

「観光として来ているからいいところとも思うのでしょうけどね。3日もいれば嫌になりますよ。不便でね」

自嘲気味にそう言われる。


早朝から駅方向へ向け歩いてみても、人とすれ違わない。都市であったら、出勤のために駅に向かう多くの人で混雑しているはずである。川沿いにはいつから植えられたものか松の並木がある。その下には、説明もない石碑が点在し沈黙している。遮断機が降りてから1両編成の列車が通り過ぎるまで随分の間を要する。
滞在中のある日の午前10時頃、時刻表を見ずに切符を購入したところ、駅員が慌てて声をかけてくる。既に電車は出たというのだ。慌てている理由は思いがけないものだった。というのも次発は午後13時であるというのだ。


萩市内の主要な交通手段としては循環バスがある。東西の2ルートがあり、地元民と観光客それぞれの用途が足せるようになっている。しかし乗り継ぎ点が少なく、時間のロスも多い。観光客からすれば、萩の町並みを眺めていられるから時間はさほど気にならない。しかし暮らしていくには厳しい。

 

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地図上では徒歩で容易に回れそうに思われた市内は以外に広い。徒歩ではとても用が足らない。まして買い物のできる施設が限られていれば尚更である。交通手段として徒歩は不採用となるから、循環バスに乗り込んで来るのは地元民が多い。それもほとんどが高齢者である。大きな買い物袋を皆一様に下げている。知り合いと顔を会わせるのもバスの車内が多いようで、挨拶を交わし近況を伝え合っている。皆大型商店の前で下車していく。


飲食店や喫茶店は極端に少ない。複合ショッピング施設のテナントも埋まらない。コンビニこそ生き残っていけない。日暮れには店は閉店になる。
時折すれ違うのは高齢者で、所在なさげに飼い犬を散歩していたり、飼い猫の名前をしきりに呼んでいたりする。

 

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私の目からみて、現在の都市部の一般常識からすれば「何もない」とされてしまいそうな萩には、全てがある気がした。穏やかな山並みも、美しい海岸線も、底が見通せる澄んだ河の流れも、武家屋敷跡だけに留まらない、瓦屋根の美しい家屋も、歴史を重んじる人々も。

 

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日が暮れると夜の訪れは早い。日没後は全てが闇に沈んでしまう。150年ほど前は、手元しか見えないほどの蝋燭の灯火を頼りに夜を過ごしていた。現在都市部では昼夜の別はほとんどない。朝があり、夜の訪れがある。説明的ではなく体感的な四季がある。それを自然と呼ぶのではなかったか。

 

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吉田松陰の足跡を辿って、涙松の石碑まで行ってみた。石碑近くの萩往還路には、最近梅林ができたようだった。石碑の脇にも、いつか誰かが植えたのであろう、白梅の木があった。辺りには梅の香りが漂っていた。梅の花の愛らしい造形が心を和ませた。

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松陰の句には梅がある。日本で桜が重んじられているように、中国では梅が重んじられている。かつての日本は中国の文化や思想を重んじ積極的に取り入れてきた。松陰も中国の歴史や思想を研究していた。そうした影響もあったであろうか。兄の名も梅がつく。坂本龍馬も変名に「梅太郎」を用いた。最後に見た花は、贈呈された掛け軸にあった白梅であったろう。高杉晋作も梅を好んだ。

 

 

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そうした事前に取り入れた知識が少しでもあるとないとでは、目の前の景色も全く違ったものになるのだろう。


結局滞在日を一日延長した。
至誠館では一日を費やした。
「特別」だと素直に思える場所が自国にある喜びを味わえることに、ただ感謝の意を覚える。感謝というのは説明するまでもなく、人一人立つにも天地があり、多くのものに支えられているとの自覚から成る。そしてそれは、「愛国心」という名の下に他国を闇雲に征することと対極にあるのは自明である。

 

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