鏡花水月

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萩再訪

萩再訪

その土地の風土に触れ、読書で得た知識を体感的に自分の中に取り入れたいという思いを持っての旅であったが、実際にはほとんど何も見ていなかったような気がしていた。
現地で出会えた、自分の興味のある歴史人物の直筆の書の一言一句が、想像していたよりも応えたようだった。実物を見て得た新しい発見について喜ぶ気持ちもあったが、その語句の真意について、萩の街を歩きながらそればかりを考えていた。
滞在日を延長したところで思いは変わらなかった。

 

帰宅してから、数日の休暇が得られることを知り、あまり日もおかない内に再び萩を訪れた。

 


萩市内に行くのに、山口宇部空港の方が利便性が高いようだったが、今回も萩・石見空港を利用した。理由は空港から市内へ行くまでの海岸線を通り、日本海を眺めたかったからである。日本海というと、険しい岩盤と砕ける荒波、という東尋坊の風景を、それを代表する勝手なイメージとして持っていた。しかし空港から市内へ向かう海岸線に見えるのは、穏やかで明るい凪の海と、遠く重なり合い霞む周辺に点在する島々、コバルトブルーからエメラルドグリーンへのグラデーションを彩る波の色、美しく弧を描く砂浜の織りなす風景で、瀬戸内海を臨む景色にも似ていた。


昼頃に着き、海を眺めながらくつろいだ気持ちで、今回もタクシーの運転手さんと話をする。鳴き砂といって、砂浜を歩くと摩擦で砂が鳴くのだと言う。夏にはサーフィンもできる。漁業者でなければサザエなど貝類も採れる。捕獲場所まで教えてくれる。少し羨ましい気持ちで萩の生活を思う。

 

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船上から萩を観る

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今回は萩の風土を体感することが目的であったから、方々くまなく歩いてみようと思っていた。川沿いを見ると遊覧船が出ていたため、乗ってみることにした。団体客が下船してきた後で、その後少し人が途切れてしまう。待たせるのも悪いという配慮から、一人で乗船させてもらう。どれ程の利益があるかと考えると申し訳なく思ったが、別段迷惑そうなそぶりも見せず乗せてくれる。
「じゃあ、対面でね」
と人の良さそうな船頭さんが言う。時折口調を変えてマニュアル的な説明を加えてくれるが、他は親しげに世間話をする。どこから来たのか、という問いに答えると、不意に表情を無くし遠くを見るような目つきになる。こういうことはよくある。案の定娘さんの嫁ぎ先だという。
「そっちにはええ男がおるんじゃろ」
そう言って少し笑う。どんなところかとも聞かれるが、答えはあまり耳に入っていない様子である。語間から、自分で納得し嫁いだ先で、それがどのようなところでも、暮らしやすいと思える環境であるならそれでいい、という親心が滲み出ている。

 

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船は河を迂回し日本海へ出る。菊ヶ浜の全景を眺められるポイントで船を止め、
「今は卒業の時期だから、聞いちょって」
と、取り出したハーモニカで「仰げば尊し」を独奏する。私はこれまで一度も卒業式で感慨に耽ったことがなかったが、ここで初めて、「仰げば尊し」が胸に迫るのがどういう気持ちなのかが解る気がした。こういう時、奥歯があることに感謝する。噛みしめていないと表情が作れない気がした。昔はハーモニカとカスタネットくらいしかなかったからね。祖父もハーモニカを吹いていた。
「だけど、卒業するとみんな他へ出ていくからね。もう少し仕事があればね」
生活する術があれば、娘さんもあるいはこの土地に留まっていられたのかもしれない。


この萩の自然環境や街並みを保全していくだけでも、随分人手が入りそうである。しかし街を歩くと高齢化が進行しているのが見て取れる。萩の環境や高齢者は、今後誰が支えていくのだろう。そして、仕事がないと言うが、仕事というのは、本来何を指すのであろうか。

 

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萩往還

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前回往還梅林のあたりで引き返してきた萩往還を、再び歩いてみた。萩往還萩市防府市を結ぶ、山陰、山陽の連絡路であり、江戸時代に毛利氏が萩城を築城した後、参勤交代に使用した「御成道」として開かれた。この道をかつて多くの武士や庶民が通行していた。萩から行くと、途中までは自動車道脇を通っている。それでも雰囲気のある道である。だが、鹿背坂付近からは全くの山道になる。

 

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県道は山腹を穿ったトンネルに入るため、車道の気配もなくなる。このあたりから歩くのが面白くなりそうだった。もう少し時間に自由がきけば、行けるところまで行ってみたかった。しかし旅の制約があり断念した。前後全く人気のない道を歩く機会は希であり気持ちが落ち着いた。この道をかつては草鞋履きの旅支度で通っていたのだ。そんなことを思うと、ほんのさわりくらいの往還道であったが、良い体験になった。できることなら防府市まで歩き通してみたいものである。

 

笠山

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萩一帯は阿武火山群の噴火によりできた地域である。笠山もそこに含まれる。萩の三角州は阿武川の土砂が堆積しできた土地で、かつては湿地帯であったのを埋め立てて城下町が作られた。当時は城の防備のため三角州も二つの堀で分割されていた。
長崎も人工的に埋め立ててできた都市であることを、以前旅をして知った。長崎自体が、他国籍人との住み分けのために掘りを作るなどして人工的にその地形を作り、居住者と入国者を徹底管理していたようである。出島はその一部である。


指月城からみて笠山は鬼門にあたる位置にあったため、藩政時代には樹木の伐採や鳥獣の捕獲が禁止されていた。長く人の手が加えられなかったことと、温暖な海流が近くを流れるという気候風土条件から笠山の北端に椿の自生林ができた。笠山の海岸線には今も溶岩の堆積した痕が見て取れる。
このようなことを知ると、かつての人間と自然との関わり合いの妙を思う。

 

笠山の椿群生林までは、椿の開花時期に限り無料のシャトルバスが出ている。しかし本数が少ないことを乗車時に運転手さんが説明してくれる。歩くのが好きで一日に6KMは歩くという運転手さんに、群生林から笠山の麓まで歩けるかを聞いてみた。地図上では3KMの山道であり、高齢者でも歩く人があるという。バスからの観る景色が素晴らしかったため、帰り道は歩いてみる。

 

 

椿群生林は、一歩踏み入れると他の何処にも似つかない独特の雰囲気があった。背丈よりも遙かに高く幹を伸ばす椿の群生の根本を、艶やかな葉の間から漏れた光が水面のような幻想的な陰影を映し出している。ただそこを歩くだけでも心が満たされてくる。

 

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もともと椿の花が好きだ。自覚したのは10歳の頃だったと思う。桜のように花弁を翻し華々しく散るのもいいが、枝から離れても尚、愛らしい面で見上げているような落ち椿の風情がいいと思った。笠山で観た落ち椿の風情は格別だった。

 

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群生林からの帰途、再びシャトルバスが通りかかる。挨拶を交わすような気安さでバスは止まり、開いたドアの向こうから、運転手が椿は観られたのかと声をかけてくる。その帰りと答えると頷いてバスは発車する。乗客が不思議そうにこちらを見ている。

 

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麓から市内へは有料のバスで帰る。バス停の待合いは廃墟のような風貌になっていたため、一寸不安になり、近くの駐車場の管理室でバスの発着について訪ねる。一畳もないような管理室には、おそらくご夫婦であろう年輩の方が座っておられ、快く教えてくれる。先発は既に発車したところで、次発は一時間後だという。ご夫婦はそう言いながら丸くふっくらした、日に焼けて赤らんだ頬を上げ、茹であがったばかりの芋のような、ほくほくとした笑顔を向ける。


ここで疑問が生じる。このような対応は都市部では見られないと思ったからである。極端に狭い管理室で長時間鮨詰めになりながら、何故このようにおおらかでいられるのだろうか。そこには被害者意識も諦念もみられなかった。マニュアル的な対応もなかった。表情から察する、「仕方がない」という言葉に悲観的な響きがなく、あるものでやっていくしかない、というどこか生きるための積極的な姿勢があるように感じられた。

 

バス停の周辺には自動販売機も喫茶店もない。すぐ側に漁港があり、海面の日差しの照り返しが眩しい。仕方がないからガードレールに寄りかかって本を読む。今思い返してみると、日本海を視界の端に留め、海猫の声を頭上に聞きながら読書をするというのは、とても贅沢な時間だった。

 

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30分以上が経過した頃、行き先の違うバスが通りかかり停車する。バスから二人の婦人が下車してくる。遠目からは親子かと思われた。中年の女性が高齢の女性にしきりに話しかけている。次に来た時に何時のバスに乗るかを目印しておくのがよいと勧めている。ひとしきりやりとりのあった後、二人は分かれていく。
「じゃあの、ばあさん、また何処かで会えるといいの。気をつけて帰りや。ちゃんと横断歩道渡りや」
高齢の女性は、おう、とか返事を返し歩いていく。二人とも同じ買い物袋を下げている。買い出しの帰りに偶然行き合った見知らぬ者同士のようだ。このように萩では見知らぬ者にも親しく関わってくれる人が多い。道を歩いていると、服装から現地の人間ではないとわかりそうなものだが、それでも行き合った様々の年齢層の人が挨拶をしてくれる。そうした人間を形成するものは何か。それは教育効果というだけではない気がする。


地方での暮らしは厳しい。急場でこのような交通事情であり、街の機能も日暮れには停止するような場所であったなら、自分が何とかするしかないという場面に、多く直面せざるを得ないことの予想が立つ。そうした時、通りすがった人の一声や思いやりが、どれほど無力な個人への助けになるか。こうした風土が自然に人間を培ってきたのではないかと思われる。

 

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養老孟司氏が「参勤交代」を著書で記してから久しい。幾度となくその著書に挙げられているのだが、未だに実現されていない。中央と地方が循環することで双方の利益があるという趣旨であるが、その目指すところは何か。
こうして地方の暮らしに少し触れ思うところがある。
それは、その土地の人間の語彙、対応にある。
同じ言語を使っているようでも、例えば挨拶一つを取っても、そこに内包される意味合いは、中央と地方ではこのように異なる。表出される表情一つを見ても、そこに生きる姿勢の違いを感じさせられる。地方をして長閑、凡庸とするのは誤りである。長年の風土に培われた強さと逞しさがそこにはある。このようなギャップを埋められなければ、国民の総意を得ることは困難である。

 

 

菊ヶ浜

今回の旅は天候に恵まれたため、連日日の終わりには菊ヶ浜に行き、日没を見届けてから最終バスで宿へ帰った。休日には地元の少年達が日暮れまで波打ち際に遊んでいる。夕日の景観の美しい菊ヶ浜の夕暮れは、何度観ても見飽きることがない。この景色を、幕末志士も眺めていただろうか。少年時代には今と同じように、袴の裾を濡らして波と戯れることもあったのだろうか。
美しい海を観ながら、湾岸防備ばかりを考えているとしたら、とても悲しいことだと思う。

 

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