鏡花水月

キョウカスイゲツ

「この日の学校」in板倉温泉・大黒屋 prologue

 

4月中旬、那須、板倉温泉・大黒屋において開催された「この日の学校」に参加しました。これは昨年秋にも同地で開催されており、今回はその2回目にあたります。講師は前回同様に武術研究者・甲野善紀先生、東京画廊代表取締役社長・山本豊津氏、独立研究者・森田真生氏。

タイトルにprologueとしたのは、そこで語られたことの内容が余りにも膨大で、その場の空気や時間の流れが言葉として言い尽くせないほど濃密で奥深かったからであり、現時点で言葉にできることは記憶の断片程度の僅かなもので、まとまりに欠くからです。感想にもならない段階で、言葉にすべきではないのではないかとも考えました。

しかし、このような状態であるにも関わらず、記憶に新しく、言葉にできる僅かな部分だけでも記しておきたいと思ったのは、講師の先生方や主催者側の方々へ、貴重な経験をさせて頂けたことへの感謝の意を表したいという思いに他なりません。

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留保される思想

このブログに既に取り上げた、以前建長寺で行われたイベント("Choreograph life")が、時を経て度々思い出される。
というのも、そこで語られたことについて、未だ再考の余地のある事柄が多く残されているからなのだと思う。

玄侑禅師の語られた禅の思想の含む内容は膨大で、同じく他の宗教の思想についても同様の事を感じる。それらを只「自分の考えがとても及ばないような『高いところ』にあるのだから、その意味を知ることは不可能だ」とし、その内容を知る一切の努力を放棄することは簡単である。自分の思考の枠の中で答えがすぐに見つかりそうにないものは、「知るのは不可能」であるから、「考えることを放棄する」か、「正否の判断はできないが『みんなが信じているから』自分も鵜呑みにしても間違いない」と思うか、のどちらかに偏りやすい。そして、そのどちらも個人の思考・価値判断を伴わないという点において同様である。全てを捨てるのも、受け入れるのも、その覚悟を問われることなく、つまり「十分に吟味し消化され、個人の一部として取り入れられる」のではなく、瞬時に個人に於いて単純に「無化される」。覚悟を問うのは、言うまでもなく個人、その人である。

 

自分の小さきことの自覚について言い、自分を超えるものの存在を認めるというポーズは、一見したところでは「純粋」であることと錯覚されやすい。しかしそれは「自分と向き合うことを放棄する」のと同義ではないかと思う。一体自分の能力を計るものを、個人に於いて何と設定しているから、そのような行為に至るのか。誰かが、或いは機械が提示したものに、どこまでの客観性を求め信頼するというのか。

 

「解る」/「解らない」という判断をするには、それを見極めるための個人の努力が不可欠である。そうした原因から結果を結ぶまでの、中間的な部分を埋める思考過程は、現代では特に、余りにも単純に省かれてしまっているのではないかという問題意識を持つ。

 

「見えている」が「見えない」現実は肥大化する一方であるように思える。

 

例えば数学者の採る奇異な言動をして、理解不能であると判断し、視界から消すことは容易い。「解らない」から「無かった」ことになるのは一瞬である。

 

そうした習慣付けが導き出すのは、現実認識の喪失である。

 

視界に入ったことの全てに注意を向け、それが理解できるものかどうかの判断をすることの不可能は考えるまでもない。それをしていたら微塵も動くことはならないからだ。だからそこに無意識的に「見なし」をかけ判断を留保している。問題なのはそこに延長をかけ続けることにある。「能力がないから」、「時間がないから」、「困らないから」つまり個人にとって「無用」であるという合理化が、立ち止まり思索することの意義を簡単に打ち消している。

 

この歩みを延長した先はどのようなものであるのか。個人はいずれ、「自分で判断できない」、「個人としての意見を持たない」、つまり「個人と名乗るだけの存在意義を持たない」、理解不能で単純に無化されるような、ある「記号」になる道を歩んでいるのではないか。


以上に述べたことから、「日常生活に於いて、立ち止まり再考することを留保されているものがある」という認識を持つということと、「その留保されているものが何であるかという実体を明らかにするため、様々な角度から検証する」試みの一つとしての実験的な場であるのが「この日の学校」であるのではないか、と、今回板倉温泉、大黒屋での催しに参加し、そのような思いに至る。

 

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"Choreograph life"から思い出されたことの一つは、玄侑禅師が語られた以下のようなものである。

孔子は自身の思想を書として残さなかったが、その思想を引き継いだ弟子が書物として残したため、孔子という名も功績も現代に残り語り継がれている。同様に岡潔も森田氏の出現により名を知られることとなったのではないか」。

その森田真生氏は甲野善紀先生から見い出された。また、前回に続き山本豊津氏と甲野先生、森田氏と三者の対談が実現したのも、山本氏が甲野先生、森田氏の活動に意義を認め、自身の活動にも意義深い感化が得られるのではないかと思われたことによる、という趣旨のことを主催者の方からお聞きした。更に、講師の3者全ての方が、利益ということについて口にされないのが共通しているとのことである。「この日の学校」の活動が継続され、活動の場を広げてこられたのも、講師の方、主催者の方を含む様々な方々の高い意識と、努力の結晶である。


このようなー例えば「この日の学校」がどのように成り立ち継続されたきたのか、というようなーことは普段は大きな声では語られない。

 

同様に、変化のきっかけは日常に埋没した些細な事から起こる。

 

普段見過ごされがちな些細な出来事に、注意を払うのか、価値をおくのかといったことの全てが、個人の判断に委ねられているという事の重大さを見過ごすことなく、自覚的でありたい。それが生きていることの実感へと繋がっていくのではないだろうか。

 

今回板倉で開催された「この日の学校」で語られたことが、今後の自分自身から、今後の同時代に生きる人間一般にまで拡大し考えても有意義なことであると確信されるような内容であったため、このような希有な出会いに感謝の意を表したいと思いここに記した。


「この日の学校」で語られた具体的な内容については、十分に吟味し熟考の末ここに記し、多くの方と共有していけたらいいと思っている。

 

 

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