鏡花水月

キョウカスイゲツ

「この日の学校」in板倉(一)

「この日の学校」in板倉の序章としたおおまかな感想に続いて、講師の先生方の対談で語られた内容について触れていきたいと思います。対談はノートと取りながら聴いていたので、それを紐解いて眺めていたところ、様々な考えが取り留めもなく浮かんできました。ノートに書き留めたものも、先生方のお話全てを網羅してるわけでもなく、また言葉として語られない部分にも大事なことは多くありましたので、以下に記すのは対談を通して自分が考えたところを自由にまとめたものです。興味のある方は、先生方のお話を受け、ある一人の人間がこれだけのことを考えるきっかけとなったのだと思われ、お読み頂ければと思います。
先生方のお話の実際が知りたいと思われる方は、参加して頂けるのが一番ではないかと思います。

 


「遊び」と「集団」

武術・美術・数学の語りから導き出されたものが「童心に還る」ことであるとしたら、どのように思われるだろう。今ここに、その時、その場の印象として思い返されたものを文字に託そうと試みたところ、真っ直ぐに心に浮かんできたのは、その場の暖かく笑いに満ちた空間と、講師の先生方の少年のような、澄んで輝く眼差しであった。私は講師の先生方の講義に聴き入りながら、何故か新しい遊びを覚えた子供のように夢中になっていた。後にあれは「遊び」だったのか、そう思った。

 

 

「遊び」とはそもそも何であろうか。一定のルールに切り取られた枠の中で、ある「到達点(終点)」を設定し、到達に向かう過程を楽しむ行為であるとここでは考える。「終わり」を目指しているのに夢中になる。何故なら「終わり」というのはある「区切り」のことであり、殆ど意味を成さない。夢中になるのは、ルールという不自由な枠の中で、どのように工夫を凝らし自由を獲得するのかということにある。不自由さが前面に意識されるから、対比させられるように自由を意識する。そのような中で心が動くことを感じる時に「楽しさ」や「喜び」を自覚する。複数の人間と「遊び」を共有するのであれば、「遊び」はそれを通じて自他の立場を意識しー否応無くー同じ場、空間を共有する工夫をするという、「集団」を意識する一つの効果的な行為であるともいえる。

 

もともと人間というのは集団を形成するのに長けている動物なのだろうか。自我が発達すれば、進んで集団を求めるものなのであろうか。「遊び」という集団形成に効果的なツールを発達させてきた歴史をみれば、集団は生存という必要に応じて形成されてはいても、集団としての自我の確立や、生産性の向上等という、集団の成熟を目指すことの必然は寧ろ不透明な感がある。不確定、不定形な要素を廃しきれないのは、そこに個の違いがあってこその集団であるからではないか。つまり、個体差がないのならば「集団」を形成する必要もなく、「遊び」の発達もないということである。

 

話を戻すと、ここで「遊び」を持ち出したのは、このイベントが「集団」を形成するための効果的な方法を提示したと記したいからではない。そうではなくて、かけがえのない個が見えた時、自ずと集団が意識させられたことの不思議を記したかったのである。時空間を共有するというのは、結果であり目的ではないのではないか、そのような気がしたのである。

 

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