鏡花水月

キョウカスイゲツ

「この日の学校」in京都

「この日の学校」


「この日の学校」という他に類をみないタイトルのイベントの説明を以下に抜粋する。

●この日の学校にこめられた思い

 学校(school)ということばは古代ギリシア語のスコレー(schole) ということばを起源にもつ。スコレーとは、古代ギリシア古代ローマの市民が、音楽や芝居、議論を楽しんだり、スポーツを嗜んだりした暇な時間、あるいはその暇つぶしをした場所そのものを意味する。このスコレーということばは、現在の「学校」ということばが持つ語感よりも、はるかに本来の学問のあるべき姿と近しい関係にあることばではないだろうか。

 何か与えられたカリキュラムがあって、一方的に先生から与えられた知識を吸収していくというのではなく、主体的に集まった人々が、それぞれの関心にしたがって何かを調べたり、何かを楽しんだりする。そこには決められた課題も、与えられた研究目標もなく、それぞれがそれぞれの「そのときの課題」を発見し、それを追求していく。スコレーということばが喚起する、そうした「学び」の光景に惹かれて、僕はあえて「学校」という表現を採用することに拘った。 

 関心の芽生えた瞬間がスコレーのはじまりであり、探究が次なる関心へと移っていったときにはそれまでのスコレーを身軽に離れて、次なるスコレーをはじめていく。そのときそのときのスコレーがあるのであって、今日のスコレーが明日もある必要は必ずしもない。

「この日の学校」ということばには、そんな意味が込められている。

 この日、この日の学校があるだけであると考えてみると、○○大学に所属していることだとか、○○高校というブランドなどということがいかに無意味であるかということが実感されてくるのではないだろうか。
 毎日、「それでは、この日の学校をはじめます。」そんな号令ではじまる学校があったとしたら、素敵だとは思わないだろうか。

森田真生

 

 

今回4月初旬に京都で行われたイベントの冒頭で、森田真生氏(独立研究者)は、根元的な問いに対し、専門性を理由に答えを回避する現在の学問に対する危惧を指摘された。もう一人の講師である甲野善紀先生(武術研究者)も「人は何故生きるのか」「人間にとっての自然は何か」という根本的な問いに対し、武術を通じて身体レベルにまで降ろし納得できるよう、正面から向き合い研究を重ねられておられる。

先に挙げた「この日の学校」の説明を読まれた時点で、そうしたコンセプトのイベントから生み出されるものについて、想像を越えた展開があるのではないかと胸を高鳴らせる方も少なくないのではないかと想像する。それがイベントの導入部分で既に確信へと変わっていった。

 

今回のイベントのテーマは「一人一道」。それを語るに相応しい両講師からの講話の展開への期待に、開始直前の会場は快い緊張感と共に静まりかえっていた。誰も「静かに」などど無粋な声をかけない。開始前から既にオーディエンスの心構えが整っていることがみてとれた。こうした質の高いイベントも希であると感じた。

 

以下に感想を載せます。興味のある方はお読みになって下さい。

今回のイベントに参加できなかった方や、新たに「この日の学校」について興味を持たれた方は、両講師の最新の書籍を是非お読みになられて下さい。

 

今までにない職業をつくる

今までにない職業をつくる

 

 

 

考える人 2015年 05月号

考える人 2015年 05月号

 

 

「情緒」について

森田氏は、この他にも「数学の演奏会」というイベントの講師をされている。数学の演奏とは奇抜なタイトルとも思ったが、森田氏の言葉を聴けば納得される。

 

それはまるで、唄を、或いは詩の講読を聴いているようでもあった。
快い調べ、紡がれる言葉の響きに耳を傾ける。

語調、息継ぎ、感触、つまり、その言葉をどのように扱うのか、どこで区切るのか、どのような感覚で受け止めたのか、そうした演奏者の情の動きを総合的に表現したもの、それが唄、詩であり、この場合は論理であった。

演奏における音の高低、強弱、速度、変調、同調。

この講義に換言すれば、それは論理の飛躍、一般化、語の強調、或いは敢えて語り尽くさない結論の保留、急ききって説明し尽くそうとする情熱、立ち止まり思索する冷静さ、変転し拡大する論理展開、論理を総合し俯瞰する視点、そのライブで展開された、その場限りの論理との邂逅は、演奏によく似ていた。

 

同じ唄(或いは詩)も、演奏者によって違う味、違う意味付けがなされる。名曲は時代を経て繰り返し演奏される。その解釈は様々であっていい。大切なのは情が動くか否かということにかかっている。

 

森田氏が研究されている数学者の一人に「岡潔」がいる。
岡潔は数学者でありながら、「計算と論理だけが数学の本体ではない。数学の中心は情緒である」とし、数学から人間を俯瞰し捉えた希有な存在である。

情動、情緒、つまり情の動きに啓発され、新たな視点を得る。新たな認識の光に照らし出された、知られざる世界の部分を見いだすことができる。
森田氏の語る数学史の変遷を聴いていると、そのような思いが立ち上がってくる。

 

人間が知るのは、人間が認識した世界である。
人間は人間の知る世界を動かすことはできるが、人間の知らない世界を動かすことはできない。
従って、人間が挑戦し続けるのは、世界を知ることである。人間を知り、人間に近づくことが、世界を知る契機となる。

 

人間の経験するおおまかなパターンを機械に学ばせ、おおまかな人間像を提出することは、あるいは可能かもしれない。それは普遍性のある、無限の人間というものの「完成」をみるのかもしれない。だが、その完成をみて、人間の情が動くとは思えない。記号にならないのが、言葉として言い尽くせないのが、人間であるからだ。老いや死の、欠落を抱えた不完全な存在であるから、そこに文化、芸術が生まれた。文化、芸術が創造する美とは一瞬の邂逅である。一瞬の中にある普遍性を見いだす感性、情動、或いは情緒が、有限な人間の生を駆動させている。

 

一体情動、情緒とは何なのか。情が沸くという。情が動く、それは一体何を示しているのか。
情とは、いわば世界の胎動である。知られざる世界を認識した時、自らの生を更新させようとする起こり、契機である。新しい世界に人間は自らを適応させようとする。目の前に展開された新たな世界を生きようとするとき、そこに生命を更新させる積極的な意図が生まれる。それは言葉にするなら、希望、ということにもなるのかもしれない。

人間が、人間の認識を広げようとするとき、他者から受ける刺激は最も大きい。何故なら、個体として分かたれた同胞であっても、その成り立ち、性質に完全な一致はない。さすれば、各々が芸術なのである。

 

「幸福」について

私は常々、人間が最も不幸なのは、他者がいなければ幸福を知ることができないことにあるのではないかと思っていた。世界にたった一人の存在になったと仮定した時、そこに完全な幸福はあるか。確かに他者に幸福の是非を問われることはないから、己が幸福であるとすればそれが覆されるということはない。しかし、そこに幸福の実感はあるのか。

例えば万能計算機械が作り出した、無限な存在となった人間ができたとして、その無限な存在である人間が、この世界の幸福を知るということがあるのか。
万能計算機械はこのような疑問を呈するのではないか、「幸福などという概念を知る必要がどこにあるのか」と。或いは、現在に至るまでの様々な幸福の定義を情報として羅列してみせるのではないか。

個体として完全に充足した無限の存在に、情や幸福、つまりは他者との繋がりを築くツールを考える必要はない。

現在世界中に普及しているPCやスマートフォンに代表される万能計算機械の、スマートである所以は、指先一つで世界を知るということにあるようにも思える。いかなる問いにもそれなりに答えてくれ、誤りは自動的に修正され、世界は更新されていく。果たして、そうだろうか?数学者の熱意が実現させた万能計算機械について、その歴史的変遷も、その結果として予想される未来像も考えることなく恩恵にあずかるままでは、人間が考案した計算を、人間そのものと見誤るおそれすらあるのではないか。

 

今回の「この日の学校」にしてもデータ処理すれば何回でも再生可能である。しかし、データとしては再生可能であるかもしれないが、その日、その場、その人に再び巡り会うことはない。人間の存在は継続しているようで刹那の存在である。「私」という意識が指すものの実体は明らかにされていない。細胞は刻々と入れ替わっている。

指先を使わなくても、その日、その場、そこにいる、ということそのものが、その人すらも認識し得ない多くの情報を含有している。
そこにいる、というだけで、人間は多くの関わりを持っている。目配せ一つで、もっというなら、身体の僅かな動きで多くのコミュニケーションが可能である。そうした感受性を持つ人間が集まり場を共有するということは、それが既に希なことである。

 

人間は人間との関わり合いで世界を認識し、世界を広げていく。それは、他者という鏡を通して実存する自分を知り、他者に触発され世界を更新していくということなのでないか。そう考えていくと、人間の最大の幸福は同胞が存在していることにあると言えるのではないか。つまり、不完全な自分と不完全な他者がいるからこそ、世界への認識を深め拡大していくことができるのではないか。

 

このように考えていくと、自分や他者を存続させていくことの意義が生まれると共に、その外側にある、人間を存在させている世界、環境との調和を図ることの意義が生まれる。人間は一人では存在し得ない。

 

「豊かさ」について

 人間とは情報の入力、すなわち感覚系と、出力という筋骨格系の二つに集約できるとは、養老孟司先生が仰ったことである。人間の枠を広げ、世界知を拡大し更新するには、その両者を鍛え駆使していくことが不可欠である。

 

つまり、指先の感覚と視力だけでは全くの不十分であることは言うまでもない。

 

森田氏によると、岡潔は人間には2つの心があるとし、第一の心はMIND(意識を通した心)であり、第二の心は無私(意識を通さない心)であるとした。第一の心はデカルトライプニッツによって、計算という方法を用いて精神を正しく導く規制を考えるという方向性へと向かった。他方岡潔は、日本の方法は第二の心を用いることであるとし、学問のためには精神と身体を分けず整えることの重要性を説いた。

 

ここで甲野先生の重要な指摘がある。
それは「努力すること」の弊害である。
「努力」とは真似してできるようにすることで、意識に制御された行動である。しかし甲野先生は『平常是道』という禅の思想を例に、「努力しないこと」つまり「人間の特性のままに動作する」ことの重要性を説く。

「「人間の運命は努力で変えられる」ということに対する疑問は、例えば宗教の勧誘の中に人を納得させようとする意図があるからではないか。全ての宗教が「予言」と「個人の努力」を挙げるのはおかしいことである。
人間は自由を求めるが、同時に予言が的中するというような拘束性を喜ぶのは何故かという疑問が生じる。つまり『人間は自分が納得しない自由を欲していない』そこに『運命は決まっていて自由である』、我ならざるものに身を任せることに納得するのではないか。」―

 

この矛盾は、武術としては身体に拘束されているが故の「自由」、数学としては定理の繋がりとしての「調和」として換言することができる。

 

「認知や行動は人間の予測と現実を埋めるものであり、脳が求めるのは完全な不自由である。しかし期待が裏切られることで信念が一つ更新される。可能性の広がりが知性である。人間は常に予測し行動している。驚きには2つあり、認知的な驚きは負の予測であり、情緒的驚きは正の予測であるとも言え、学問は情緒的驚きを求めるためにするものである。」

 

「豊かに生きるためには、人間は全く無目的とも思われる行動も統御されていることに気づくことである。「思わず」という無私の心は、透明な知性に宿る。倫理というのもそこにある。」

・・・・・

最後に、「一人一道」のテーマの結びとして、甲野先生の最新の著書、「今までにない職業をつくる」から以下の文を抜粋する。


私としては自分が生きることに対する姿勢、つまり、人間として生きるとはどういうことかという、生き方への矜持を自分がどれだけ持っているか、ということが一番重要なことなのです。それは正しい、正しくないということではなくて、その人の生き方そのものを表していると思うからです。ですから人に強制するようなものではありません。各人がそれまで生きてきた中で、自然と醸成されてきた生き方のセンスそのものだからです。
―中略―
自分なりの意見がある、考えがある。自立というのは本来、そういうものだと思います。

 

自立した多くの人間が切磋琢磨し合い、他者と、自然と調和のとれた世界を構築できたなら、と人間は有史以来願い続けている。その実現のために歩を進めるのには相応の覚悟がいる。そこで、その道の先駆者等の存在に触れ、毅然として生きる姿を目の当たりにすることで、触発されるものは多くある。
そうした機会を自らの感性と身体を使って求めることが、世界を変えるきっかけになるのではないか。