鏡花水月

キョウカスイゲツ

「この日の学校」in板倉(二)

「数学を通して身体を整える」

 

「数学を通して身体を整える」というタイトルを以て、どのようなイメージが沸くだろうか。「数学」と「身体」がどのように関連するのかについても、一寸見ただけでは浮かばない。まして数学から身体を「整える」とは如何なることなのか。

 

森田氏の語るところを聴いていると、数学というのは言語や、概念、思想に置き換えることができるようにも思える。

もともとは計算から発生した数学は、物体の測量へ応用され、有限・無限の概念にまで及び、更に予測や信念という人間の行動を決定づける思考にまで浸透している。このように広域に、人間の意識だけでなく、無意識の領域にまで及び発展を遂げた数学史の変遷を聴いていると、それを押し進めてきた数学者の情熱に打たれる。森田氏が限られた時間の中で、歴代の数学者達の功績を急ききって語り尽くそうとしているようにも見える時、先人達への敬意とその意志を継ごうとする思いを強く感じ、いつも心を打たれる。

 

現在世界中に普及しているPCは、森田氏が万能計算機と読み替えられるまで、私は計算機であるという認識を持っていなかった。これほど身近にあるに関わらず、それが何なのか認識しないでいられるということに、知らないということの怖さを感じる。

 

万能計算機がこれほど広域に、かつ個人の生活の中に組み込まれている今、その成り立ちと、世界的に普及するに至った過程を踏まえておくことが今後を考えていくうえで重要であると森田氏は指摘する。

 

万能計算機が普及したのは情報処理能力が高いためであると思う。現在の数学は複雑になり過ぎ、数式の正否を明らかにするために数年を要すようにもなっているのだという。そこで、人間で数年かかるところの計算を機械で処理するという案もあるのだという。他にもメールや動画等から、かつての万能計算機のない頃に比較し、格段に時間や場所の制約を受けずに他者とコミュニケートすることが可能になった。世界の未明な部分にも瞬時にアクセスし、迅速に答えを得ることが可能となった。
だが、他者や世界が身近になったという実感は寧ろ薄れていると思うのは何故なのだろうか。

 

「数学が実用の手段であったものが、道具(数)そのものへの興味へと移り変わっていった」という森田氏の発言から類推すると、計算機を使い何を達成したいか、ということではなく、計算機そのものへの興味に集中しているからではないかと思われる。
もともとは人間の知性を補充するものとしての機械であり、方法として価値のあったものが、機械の精度を向上することが目的となってしまっているようにも見える。時間、場所を問わず万能計算機にかじりついている様をみると、現実は茅の外におかれている感がある。

 

万能計算機器の精度が向上するとは、計算がより迅速に行え、正確で誤差がなく、制御可能ということになるだろうか。

 

万能計算機器の使用で情報処理能力が向上した側面もある。しかしそれそのものへの興味の延長として依存的になるということは、A=B式の考え方、養老氏によれば「ああすればこうなる」式の考え方を習慣化していくという方向性になっていくのではないだろうか。頭脳優先で身体が疎かになる→意識的に造られた都市に付加価値をつける(中央集権的で地方を排除する)→都市社会のルールを優先する(メジャーが時代を形作りマイノリティは淘汰される)、そうした短絡的な思考を強化するということになりはしないだろうか。

 

数学の発展は尚も続き、現在では個人の嗜好や行動の傾向をデータとして集積し、精緻に把握していくことでサービスの個別化をはかれるようにもなってきているという。人工知能の開発が押し進められた先には、人間の思考や、性格もより精密に類型化されていくのかもしれない。人工知能の精度がより向上した暁には、対比し類型化されない部分から、人間の持つ「可能性」というものの形や質がより明確になっていくのかもしれない。

 

これからの未来を考えるとき、人間と機械が共生する時代となっていくことは回避できないと森田氏は言う。主体となる人間の能力について、科学的に証明される部分と身体的なものの双方への理解を深め、主観的な部分と計算的な部分の偏りをなくす方法として降ろしていくことが重要なのではないかと説く。

 

 

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「人間にとっての自然」

 

甲野先生の追求されている「人間にとっての自然とは何か」、という問いは大きい。

 

人間は自然から発生したが、そのままでは人間になれない。狼が人間を育てれば狼の生態を模倣してしまうほどに、後天的に形作られる部分が大きい。他の動植物に比較し人間は未分化な状態で生まれてくる。根を張り自生することもできなければ、生まれてすぐには物を見分ける視力も持たず、自力で動き回ることもできない。四肢を使って自力で動けるようになるには半年を要し、二足歩行をし出すには1年を待たなければならない。食事や排泄の自立にはそれ以上の期間を要する。そして成体となったところで環境に対する抵抗性はほとんど備わっていない。だから、他の動物に比較し弱い存在であったからこそ、道具を駆使し環境を人間側に合うよう作り替えることで発展することができた。

 

人間は自然から生じ、環境へ適応するという特性をもつが、環境を人間側へ適応させることもできる。他の動植物に比べ未分化な要素が強いまま生まれ、自然に対し余りにも無力であったからこそ、道具を用い環境を人間が生きやすいように変更することが必要であった。そうした環境を変えるという能力に長けていたからこそ、人間の発展はあった。

 

人間が生きるために環境の変更を押し進めていった結果、人間は社会を形成するに至り、出生後いかにして迅速に人間社会に適応できるかということが、生きていくための優先課題となった。つまり、生き抜くためには人間社会のルールに適応する術を学ばなければならないということを、幼少から意識させられているということである。

 

これは当然の帰結であるようだが、抜け落ちている部分がある。それは自然の一部としての人間である。

 

人間社会というのはいうまでもなく人間が意識的に作り出してきた環境である。その時代によって常識という通念や社会のルールも変更される。自然から発生した人間という存在が、人的環境のみに適応すべきであるとするところに偏りが生じ、そうした「努力」という無理を重ねた結果、人間は本来持つ能力を失ってきた。

 

人間は人間として生まれるのだがそのままでは人間になれず、更に人間が何であるかということも解ってはいない。そこに根源的な矛盾を抱えている。

 

人間が道具を用い、対談の内容からすると道具としての数字を用い、数学の発展が万能計算機を作り出した。森田氏の「計算機はルールを変更することができない、それをし続けることしかできない」という言葉は意味深長である。同じように時代という枠組みも、常識という通念も、変更不能であるとすれば発展の余地はない。だが、「人間はルールを変更することができる」。しかし、何のためにルールを変更する必要があるのかと言えば、人間が人間に都合の良いようにルールを変更し続けるということではなく、自然との調和を図るためである。

 

人間がいたから自然があったわけではなく、自然があり人間が生じたのだ。自然から離れれれば人間は人間であることすらもできなくなる。自然を破壊するのは人間を破壊することと同義だからだ。

 

人間は生きる。他の動植物と同じように生きる。違うのは「自分の正体が何なのかと考え続けること」、「生き続けることに自覚的である」ことではないか。しかし自然がどのようにしてできたのかも明らかにされていないのに、人間が何故存在するかについての答えはない。そんな存在そのものに対する不安をを無くす試みとして、人間は人間のルールを更新し、人工的な、つまり原因・結果の明らかな世界の住人になれれば「安心」できると錯覚しているように思える。

 

あらゆる不安要素をなくしていけば「幸せ」になれる。答えの出ない部分は視界から外れれば良く、全てに答えがある世界の住人になれれば世界が平和になる。つまり、人間の幸せは人工空間の住民になることであり、人間の求める豊かさは語り尽くせるもので、形のあるものである。そしてそこには他者の介在する余地はないだろう。

 

人間が全能感を持つために現実を歪めて捉え、環境を人間側の都合に合わせて破壊し尽くすことが、人類の歩んできた道の帰結であるとするなら、これほど愚かしく悲しい現実はない。

 

森田氏は更に言う、「機械にないのは共感する能力である」。何故なら機械は代替がきくもので、それそのものに能力を規定する枠がある。人間は道具の利便性を高める工夫をし、本来の意味ではない利用価値(付加価値)を付与することができ、道具の発展があった。だが道具(機械)は道具であり、それを利用するのは人間である。個体差があれば機械ではない。厳密にいうと完全に個体差がないとはいえないのかもしれないが、ある一定の動作が求められているものであり、それ以上のものではないことは言える。またそれ以上にもなりようがない。それ以上になったのなら、それは主体が変わったからなのだ。世界が変わるとは自分が変わることである。