鏡花水月

キョウカスイゲツ

「この日の学校」in板倉(三)

「風景」を共有する

「これから必要なのは風景を共有することである」と山本氏は言う。西洋の統一を求める(普遍性を求める)欲求には人間の根源的な欲求があるからではないか。ARTとしては風景として俯瞰する欲求として風景画が発生したのではないか。また風景という言葉が内包するのは、イマジネーション、行為、知覚、理解であるとも言われる。

 

「人間とは何か」という根源的な問いは、用意に答えの出ることでないことから「非生産的」であるとされ、時代から置き去りになっている感がある。人間が人間になるためには、人間が後に作り出した人間社会に適応できるように育てる、つまり人間が作り出したルールに適応するように育てることが「人間を育てる」ということになった。

しかしそれは「既存のルールに乗っ取ること」が優先されるばかりで、人間が本来持つ能力を最大限に発揮させるということからは逸れてしまった。つまり、人間社会に適応するための様式を素早く覚えることが望ましく、それが生き残っていくための最優先課題となってしまい、そもそも人間とは何か、人間の自然とは何かという根源的な問いは虚空に舞ったまま等閑にされている。

 

岡潔の言う、「数式ではない数式を解きたい」とは、解決不能な根源的な問題に、計算によっては導き出せない部分に、新たな光を当てたいという意思表明のようにも思える。

 

人間の足りない部分を補うための計算機であるのだが、今はいわば「計算に夢中」で「考える主体」である自分は置き去りになっている感がある。

 

「考える主体」がないというのは「私」と名乗れる存在が希少になっている、或いは「私」が不透明で遠い存在になっているということである。だから出会えない。「私」がないのなら、「他者」もない。その区切りが意識させられることもないからである。

 

私が思い続けているのは、人間の自由とは考えることにあるのではないかということである。それは自分が最も自由を自覚するのは、自ら考えている瞬間だからである。だからこうして考え続けている。それは答えを導き出すことが目的なのではない。

 

人間の自由とは考えることにある。しかし追求したい事柄に、自分だけの考えの枠の中では発想の転換が困難であり、すぐに行き詰まってしまう。新たな発想を生み出すのには同胞との掛け合いが有効で、有効だと感じるのは、自分が考えていることを伝えようとする時に、初めて「自分」が意識させられるからだ。

 

人間は細胞も移り変わり、「私」という意識も断続的である。そのような不確定な存在が「私」としなければならないのは、追求したいことを表明したい時である。もともとが不確定な存在であるから答えというものもない。答えを追求しているのではなく「自分を納得させたい」から考え続けている。そこで新たな不確定な存在である「他者」と同じ風景を眺められたら、つまり共感できる部分があるなら、お互いに「解る」部分から「解らない」部分を導き出せる。そこに新たな「気づき」を得る。

 

人間は死ぬ運命にあるが、同時に「死ぬまで自覚的に生き続ける」存在である。運命からは免れないが、考えることの自由は制限されていない。自由度を高め自由を保障し合えることが「風景を共有する」ことなのかもしれない。

 

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以上講師の先生方が語られたことを元に、自分なりに考えたことをまとめてみました。ここに一旦文章にしてみましたが、まだ表現し尽くせない部分が多く残されています。それについては今後折に触れて表現していけたらと思っています。

 

自分一人では普段気づけない多くのことを気づかせて頂いた先生方に、深く感謝の意を表します。