鏡花水月

キョウカスイゲツ

言葉の外

月に問う

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夜道を行きながら月を見上げ、漠として思う、「今日は何事も無かった」と。
薄雲の向こうにある月は、時折雲に隠れては再び現れる。雲間から光を強弱させる様は、思案顔をしているかのようにも見える。
月は言う、「何も無いとは、如何なることなのか」と。

 

 

ある人が歩む道の傍らに、枳殻の木が生えている。
伸ばした手の先に茂る葉の影には、毛虫がついている。
知らず、その人は歩み続ける。
不図道端に咲く花に目を転じる。
花の周辺を蝶が舞っている。
その人は覚えず花に近づき花を愛で、蝶の舞う姿を追い、春を味わう。

もしも枳殻の棘に衣を絡め取られたら、或いは毛虫に触れ皮膚を痛めたのなら、その人は棘や毛虫にある特別の注意を払うだろう。
そこに春はあるのか。

 

平穏な心が乱された時、「何も無い」という思いは生まれなかっただろう。

 

花や蝶がその人の認識の中心となった後にも、傍らに枳殻は在り続け、毛虫は葉を噛んでいただろう。
視界の外にも世界は存在し続けただろう、それ以前と同じように、寂として。

 

もしもその人が花や蝶を見た後に棘や毛虫を知ったのなら、そこにどのような意味を見いだしたのだろう。
個人の中で、どのような物語の変更があったのだろう。


蝶が死に、毛虫が絶え、人間が消えた後にも世界はあるだろう。

 

 

心を配るという、
世界を知るという、
その一切はその人と共に立ち現れ、移ろい、消えていく。

 

思うに、人間一人の存在というのは、ある一つの言葉なのだ。
語られ始めた瞬間に終わりは約束されている。
その人の存在そのものが語る言葉を、後に来る人が紡ぎ、編んでいく。そのような散りばめられた人間という言葉が文化を創っていく。

 

その人が誰かに示したいことを自覚するとき、
或いは誰かがその人を見て立ち上がる言葉に耳を傾けるとき、
そこに一つの存在の意味がある。
存在そのものには、言葉はない。

 

自然とは

最近、何かを注視するということや、言葉としておろしていくことに苦痛を感じるようになった。

何かに特別な注意を向けることや、言葉に置き換えるという行為は、謂わば自然を欠いているのではないか、そうした疑問を呈しているのかもしれなかった。

言葉を捨てようとすら思った。
そんな思いがしたのは初めてのことだった。

 

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柴門肘を曲げて逢迎を絶つ
夢幻の利名何ぞ争うに足らむ
貧極まって良妻未だ醜を言わず
時来たらば牲犢応に烹に遭うべし
願わくは山野に遁れて天意を畏れ
飽くまで栄枯を易えて世情を知らむ
世念巳に消えて諸念息み
烟霧泉石襟に満ちて清し

 

           「所懐」 西郷隆盛


上述した「所懐」と題された西郷隆盛の詩句や、ゲーテのー本当は私は糸杉のように黙っていたいーと記した、嘆息のような短い詩の一節に遭遇した時、私は感傷を感じた。その何とも言えない哀しみの余波に、しばらくの間身動きがとれなくなるほどだった。

感傷を感じたのは、どれほど誠意を示し言葉を尽くしても、その全てがその意のままに伝わることはないという悲しみや諦めにも似た感情が、その詩句に込められているのではないか、そのように思ったからだ。


時を経て、そのような感傷を感じたのは誤りであったのではないかと思い返す。

 

自我を捨て、無為の中に映し出される情景を人は自然と思うのであって、伝え、形作るものではない、そうした思いに達したところからの言葉であったのだろうか、そんな気がした。