鏡花水月

キョウカスイゲツ

船を渡す

沈黙する海

 

人間を海に浮かぶ器に例えたのは、不確かな記憶によればゲーテだった。

 

確かに人間というのは、身体という無意識の海に、中に小さな脳の入る頭蓋という容器を浮かべている、というふうにも例えられるのかもしれない。

 

身体教育研究所所長・野口裕之先生の言によれば、人間は二つの人生を歩み、二つの時間の流れを生きているのだという。二つの時間とは生死それぞれに向かう時間の流れであり、二つの人生とは、関係性の中で捉えた「私」、つまり「私」と自覚する「私」と、関係性の中で明らかになる「私」ー太古の記憶を持ち、かつ未来を知る「私」ーの歩みである。

 

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「はじめに言葉ありき」と新約聖書に記されている。


言葉が世界に輪郭を作り、あらゆるものを細分化した。言葉が私と他者を分けた。言葉が「私」と思う意識と、身体を分けた。

言葉以前の「私」はどこにいたのだろう。言葉のない時、「私」と他者、「私」と世界は分かたれていなかったのだろうか。想像するしかないが、言葉のない世界で他者とコミュニケートしようとする時、他者が何を思いどうしたいのかは、他者を一時自分に取り入れ置き換えてみる、ということをしていたのではないだろうか。

言葉のない世界を知ろうとするときも、やはり世界を自分の中に取り入れるという作業を経て、認識していたのではないか。

人間は人間というフィルターをもって人間を、そして人間を取り巻く世界を知る。人間の内側には、もう一つの風景の広がりがある。


ある風景を前に、それを大切な誰かと共有したいという思いが生じることがある。不思議なことだが、大切だと思う誰かとの間では、言葉の不都合を自覚させられる。少ない言葉のやりとりのなかで、敢えて語られない主語や、「あれ」や「それ」の曖昧な言葉が何を指すのかは、それほど大きく外れるということがない。また外れたとしてもそれは殆ど意味をなさない。そこには言葉というものが寧ろ不確かな媒体として認識され、容易に風化してしまうとすら感じる。大切なものの多くは言葉の外にあり、全体性を把握できたか否かに重点が移る。

 

例えばそれは、子どもを見ているとよくわかる。
子どもの洞察力や直感的理解は、ある部分では経験に歪められた大人の理解からして群を抜いていると思う瞬間がある。子どもは些細な事を「発見」し眼を輝かせ驚いているのだが、その些細な事が何かと言えば、世界を理解するための言葉を一つ見つけたのだと、そう言っているように思えることがある。世界が一つ更新される。そのダイナミズムを目の当たりにしているのだと思う。その「発見」がいつまでも眼の輝きと笑顔とを伴うものであるようにと、願わずにはいられない。


私たちが日頃言葉という言葉を動員し、語り、伝達すべきと思う最たる事は、生存の延長に関わることである。何故このように言葉という言葉が横行し世界を埋め尽くそうとしてるかにも思えるのか。

 

 

「人間は絶えず予測している」と甲野善紀先生は言う。

 

二足歩行を採用している人間は、倒れることへの恐怖心を強く持っていること、相手の動きを相手との接点で予測する、或いは「予測してしまう」こと、視覚的に捉えた情報が行動化に作用する大きな要素となること、等は、人間が生存を延長させるための条件反射的な対応を表していると思う。武術はそうした人間の特性をある部分では利用し、ある部分では覆すものでもあるように思う。武術という観点から浮き上がった「人間」像は、生存欲求の強い存在であるようにも思える。


世界のあらゆるものを言葉に置き換え、言葉を細分化し精緻に言い尽くせるのであれば、生存を延長させる可能性が一つ強化されるー

という強烈な欲求或いは思い込みは、野口裕之先生によれば「念」ということになるのかもしれない。「念じれば叶うか」、「努力は報われるのか」ーつまり、意識すれば世界の全てを掌握し動かすことができるのか。

 

或る意味では可能である。人間が世界の中心であるとするならば。
或る意味では不可能である。人間は人間の方法でしか世界を把握することができないのであるから。

 

意識が世界を歪めていると思うのであれば、無意識の世界にこそ全てがあるのだろうか。意識を捨てられたなら、人間は「ありのままの存在」になることができるのだろうか。


意識は死と共に潰える。だから、何をしても無駄である。そうした「潔い」、全ての判断を放擲し安易な「無為」の中に耽溺しているのが、ありのままの人間の姿なのか。

 

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ーこの問いはどこかで聴いたことがある。


自然はあるがままが自然の姿なのだ。食物連鎖と単純明快なピラミッド型のヒエラルキー。生と死の混交。情の介在しない世界。つまり、「人間の存在する余地がない」という前提のもとにある世界の住人は、潔く死を選ぶしかない。

河合隼雄氏は言う。

「日本人は自然を愛好する国民だと外国人に言ったとき、その人が、それに抗弁して、日本の庭園ほど自然を痛めつけているところはない、と言うなら、それにきっちりと答えられるだろうか。確かにフランス庭園は、木を型にはめて刈ったりしている。イギリス庭園のようにすべきだのに、日本の場合、松の木一本をさんざんいじりまわしている庭師の姿を見ていると、日本の庭は「もっとも人工的」だと言いたくなってくる。それで、どうして自然を愛するとか、自然とともに、などと言うのかと問われたとき、外国人に納得がゆくように説明できる日本人がどれだけいるだろう。これができないと、グローバリゼーションの波の強い現在において、日本は孤立してしまうのではなかろうか」。

 人間への、自然から発信された問いに対する答えが文化である。文化は人間と自然が呼応し形作ったものである。発信者である自然の言葉でない言葉を、日本人の感性で捉え翻訳し、日本人の方法で作り上げたのが日本の文化であり、日本に於ける生死を内在する世界観を表現したものが日本庭園である。これは単純に意識の力で自然を変性したものではない。それだけのものであるなら、そこに何の情も立ち上がってはこない。

 

 

ーこの問いはどこかで聴いたことがある。

 

生まれたままで、人間は人間である。本能らしい本能も有さず、外界への適応力もなく、他の動物に比してあまりにも無力である。生まれ落ち、そのままでは自力で生存することもままならない人間というか弱い存在は、殆ど抗えもせず自然淘汰されるのが人間の末路、あるべき姿であるのか。

 

道元は言う。

「顕密の二教とも談ず。「本来本法性、天然自性身」と。もしかくのごとくならば、則ち三世の諸仏、甚に依ってか更に発心しして菩提を求むるや」。

 これは、人間は人間であることを習う必要があるのかという疑問にも似ている。人間は動物であるが、他の動物の抗えない食物連鎖の枠を外側から眺める眼を持った。自然から見れば何の意味もなく役にも立たない文化を造ってきた。生老病死という太古からの自然とは完全に分かたれない、謂わば運命ともいえる肉体を持ちながらも、生きることに自覚的であり、そこに喜びと慈しみを感じている。「人間は何者かと共鳴し共存し合う存在である」と野口裕之先生は言う。人間は弱い存在であったからこそ「何者かと共鳴し共存し合う存在」になったとも言えるのではないか。

 

言葉が現在のようにほぼ全世界的に流布されていない時代に於いては、「共鳴する」ことや、「共存する」ことは、言葉による定義立てなどなくして「常識」、当たり前の状態であったではないだろうか。

 

言葉を精緻に用い、「あれ」と示したものに対し人間の全存在が「ただ一つのもの」を想起するようになれば、世界の秩序は完全に整い、絶対的な倫理観を構築できる。そこに人間という存在の完全な達成がある。科学により証明され尽くされた世界がそこにある。


ーそこで一つ問う。


「私」の存在を「この世界に存在するに足る」ことはどのように証明されるのか。

 

「あなたにはここにいて欲しい」ことをどのように客観的に証明するのか。「第三者はいなくていい」ことをー、以下同じである。

 


・・・それならば、「言葉はないほうがいいのか」。
世界を言葉に置き換え自分の中に風景を作り出してきた。それを取り出し外側に表現したのが文化であるとした。文化とは世界と呼応したものであるとした。つまり、言葉には偏在性と流動性があり絶対ではない。光の当て方で影の濃淡が変じるように、言葉には実体はなく、実感があるのは身体である。ただその実感を触発する一つの兆しには成りうる。例えば和歌にみる世界観である。世界の中の一つの地域、そこにある季節と、限定された光景。三十一文字という短い言葉で表現された極小の世界からー主語も述語もない、断片のような言葉からーそこに佇む人間の風情と情感をありありと立ち上げることができる。時空間を超えそこに確実に存在していたのだという実感を起こすこともできるもの、それが言葉のもう一つの側面である。

 

世界が無味乾燥に見えるのも、世界を豊潤だと思うのも、言葉によるところが大きい。言葉の理解における「実」の在り方が、ー自然からの要請としてー問われているのではないか。

 

 

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