鏡花水月

キョウカスイゲツ

「終わり」

出逢うということ

 人と出逢うということは、考えてみれば不思議なものである。

 

毎日行き交う人々の、一々を数えようとすれば膨大なものになる。
擦れ違いはすれど、行き合うということは希で、更に「出逢った」と感じることは、厳密に考えれば殆どない、ーもしかすると、人が出逢うことなどないのかもしれない、そんな気がすることもある。

 

面と向かって話をしていても、出会えたという実感を持てない時がある。

そのような時、影が幾重にも重なって見えるような気がする。

 

過去に投じられた幾つかのある点から延びた影が、様々の方向に投げかけられ複雑な陰影を放っている。振れようとしたところに実体はなく、また実体に振れられることなど、そもそもその当人は願っていないーそのような気がすることがある。

 

ぼつぼつと話をしながら、影が揺らぐのを見ている。

当人ではその影を打ち消すことはできないのだろうな、とそのような気もする。影を打ち消すことは、その実体も無くすことにもつながりかねない。だから、影の扱いは難しい。

 

 

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「終わり」

とある地方の小さな駅のロータリー。そこに酒焼けしたような浅黒い皮膚のタクシー運転手がいる。のんびりした言い回しと、気のいい素振りをし、行き過ぎる人に駄菓子を配っている。よかったらどうぞ、とその日も菓子を勧められる。

ある時それを断ったことがあったが、その際の運転手の様子に何か気懸りを感じ、それからはあげる、と言われたら貰うことにしている。

 少し前に、運転手の様子が明らかに違うことがあった。挨拶程度の言葉かけにも難渋している様子がみてとれ、それは痛々しいほどだった。

 

断っておくが、私はその運転手と個人的な知り合いではない。

諸事情から、その駅から自宅までの交通手段としてタクシーを使用せねばならない時が多く、ロータリーに詰めているタクシー運転手の大体の顔が識別できるため、運転手の変化にも気づけるのである。

 

一点を見つめ長く重い沈黙の中で運転をする姿には、普段にはみられない重苦しさが支配していた。

影という影が重なり、濃厚な一つの影に飲み込まれようとしているかにも見えた。
大切な人を亡くしたのだろう、という気がした。
下車するときに、何とか、いつもの「おまけね」という言葉を掛けてくれたが、それが客と接する精一杯という様子だった。

 

それからしばらくして、再びその運転手のタクシーを利用した。
いつものように菓子を勧めながら、今更のように菓子を配っているのだ、と話し出す。主に学生だ、と言うので学生はタクシーを利用しないでしょうと返すと、喜ぶからだと言う。中々できることではありませんね、と言葉をかけると、「場数を踏んだからね」と少し表情を堅くする。

 

正直お金もかかるし、大変なんだ。でも、喜んでくれるからね。学生は顔を見るとまたお菓子が貰えるって来るんだ。

 

その日何となく運転手は話がしたそうだった。
そうした誰彼に菓子を配り、料金の端数を切り捨てるのは、この人にとって供養のようなものなのだと、そんな推測をしていた。

 

ここに来て〇年になるー

 

私は特別その人の話を聞きたいとも思っていなかった。その人の人生にも特別な興味もなかった。何かあるのだろうという気はしていたが、こちらから聞き出す意図はなかった。
だが、ここで話をすることは、その人個人にとって必要なことなのだということは解った。

 

その前は長距離トラックの運転手をしていた。その頃は物に執着していてね、金も何千万って使ったよ。でもそれはもう「終わったんだ」。

 

「終わった」のですか、と聞き返すと、終わったんだとやや力を込めて繰り返す。

 

終わったんだよ。思ったのはね、その時は誰も喜ばせてなかったなってー

 


その日、運転手は私が下車するときに更に多くの菓子を持たせてくれた。

 

その日のその時が運転手の人生のどの地点に当たるのか、私は知らない。
ただ後日思ったのは、おそらく私は、運転手が「終わった」ではなく「止めた」と言ったのなら、その話をそれほど聞く気にはなれなかっただろう、ということだった。

 

何かを止めるという抑止の意識の範疇であるなら、そこに興味はない。
影と争うことを止め、影と共に生きる、その筋の話だと思ったから、聞き返すということをしたのだと思う。