鏡花水月

キョウカスイゲツ

白風

落葉

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都心にある小さな神社の境内の隅に座り、参道に連なる銀杏を眺めていた。

季節は秋で、紅葉した葉色が美しかった。見るともなく葉の落ち掛かる様を眺めていた。銀杏の黄色い葉は無風の中、様々な表情を見せながら地表まで舞い落ちてみせた。その葉一枚一枚の落ち方が違うものだと、当然のようなことを改めて思考の上でなぞってみては、何か得たような気持ちになっていた。

 

若くて何も持つものもなかったから、落ち葉でも眺めているより仕方がなかったといえばそれまでなのかもしれない。

 

授業の合間にその場所で時間を潰していると、ある時一人の老婆が通りかかり、そこに座るのは止めた方がいいと忠告する。聞くと、私の座る場所は普段行き場のない近隣の老人が好んで座る場所で、そこに座る者は次々に亡くなっているのだという。私はそうですかと返事をし立ち上がる。そろそろ現実に戻った方がいいと忠告されたということなのかと、今では思う。その時は、そこを去る潮なのだという気がしていた。

 

老婆は何故か能面に似た化粧をしているのを面白く思ったが、そうした風貌でなければ私はその人の言うことを真に受ける気がしなかったろうとも思う。何故なのかは解らない。

 

そんな時でもなければ、落ち葉を見て感じ入ることもなかったろうと思い、それを私が「落ち葉」を知った最初で最後なのだろうと思っていた。

 

「落ち葉」を知るとは奇妙な言い回しだ。その神社の境内にしか木も、木の葉もないわけではない。しかしその時ほど「落ち葉」を記憶する事象を記憶から見いだすことができない。つまり、その時ほど「落ち葉」に意識を向けていた記憶がないということである。

 

しかも不思議だと思うのは、ここでは説明的に「意識を向ける」と表現しているが、実際には意識を向けた、というよりは、意識を向けられたという方が、実感として強くある。そして往々にして、自ら注意を向ける事象よりも、注意を引きつけられた事象をより体感的に自分の意識であると思わされていることに気づく。

 

自分の中のリアルは、自ら作り上げるものではなく、もたらされる何かの中にある。

 

落ち葉についてもう少し書くと、私はその銀杏の葉を自分の記憶の中である特別なものと腑分けしているようであったから、それで十分なのだという気がしていた。ところが最近、裏山の竹林の脇を通り過ぎようとしていた時、俄に竹の葉が視界を縦横に遮っていった。ある晴れた日の午前中のことで、大気には朝靄の残るような時間帯の出来事である。葉は霞を微かに残した淡い陽の光を受け、翻り煌めいた。その様を見た時の感覚は、フラッシュバックによく似ていると思った。その瞬間、行き先も目的も、時間や場所、息することすら忘れているようだった。何かに立ち竦むということを、人は一生の中でどれほど経験するのだろうかと思う。

 

自然は時に鮮烈に訴えかけてくる。

 


「深は新なり」

 

客観描写というのは客観を描写するために尊いのではない。その客観描写に依ってその人を現すから尊いのである。

ー「その人の現れ」 高浜虚子

 

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何か不明瞭な「落ち葉」について記載した理由は、例えば耳にする音、手にする本、目にする映像等のうちで、特に記憶に残るものとして認識されるものの正体について考えているからだった。落ち葉にまつわる記憶についてまとめながら、例えば殆ど理由らしい理由も見あたらないままに読み出した本が、何故自分の心を云い中てられたかのように感じるのかということを考えていた。自分の知る自分というのは、自分と意識する中だけにあるのではない、そう感じるのは何故なのか。

 

例えばある人物の一生を辿る時、その人物の経験した一切はまるで予定調和的であると感じることがある。その人を形作る環境、経験それら時代とも呼べるものはその人が引き寄せたように見えもし、またその人の経験した物事が、その人をその人たらしめたようにも見える。つまりその人の選択と経験との間に必然があり、その人とその時代は相補的な関係性にあるように見えることがある。

 

それは「人物」として歴史に名の残る人を知る中で考えたことであるが、塵のように消えていく、名も存在すらも大きな歴史の枠組みの中では判然としない個人の中においても、同様のことがいえるのではないかと思う。

 

自分が何かに訴えかけられたかのように意識を向けるもの、対話する相手というのは眼前の事象を通り抜けた先にある。「あるがままの自分」などという言い回しがあるが、そのことに実感を付与するのは、そうした自身を規定する何かに対し、自身が開かれたと感じる時なのではないかと思う。「あるがまま」ということが得難い感覚であるように思うのは、そうした理由からなのではないかと思う。

 

このように考えると、自身の目にする全て、自身の経験する全ては蔑ろにできることなど一つもない。しかしここで落とし穴となるのは、「個人」の扱いである。「個人」を安易に取り扱えば、自己肥大の混沌に陥り自身を見失う。自分という存在は、自ら規定できるものではなく、規定されうるものである。しかしながら、何が自身にとって真なのかは、自身の体感を通してしか経験されることがない。ここに人間の不思議と面白味がある。

 

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何か新しいことをしようとしてむやみに足を埒外に踏み出すのは危険なことである。それよりも自分の携わっておる事、研究しておる事に専心して、深く深く掘り下げて行くことによって、そこに新しい水脈が発見されてくる、その事が尊いのである。

ー「深は新なり」 高浜虚子

  

俳句ということを考えていたわけでも、高浜虚子を知りたいという意図があったわけでもないのだが、偶然手にした本にある特別な興味を注いでいる自分を見た気がし、ここに記した。

 

 

俳句への道 (岩波文庫)

俳句への道 (岩波文庫)