鏡花水月

キョウカスイゲツ

「阿留辺幾夜宇和」(一)

「心を開く」

 

「心を開く」という表現がある。心は開いたり閉じたりする構造であると、いつから言われ認知されたのか知らない。

 

例えば、面接法でオープンクエスチョン、あるいはクローズドクエスチョンというのがある。これは、質問者が回答者に「語らせるか、否か」という質問の手法である。
オープン、つまり開かれた状態であることは、語らせること、自由に語る相手は不定形であり、クローズド、閉じられた状態であることは、語らせないこと、定形、つまり相手を鋳型に填め固定化すること、というふうにも考えられる。

 

では、心を開いた状態であるときは、心は自由に何事かを語っているのだろうか。

 

f:id:lovrl:20151216015143j:plain

 

例えば、目の前にいる相手に対し、できるだけ「心を開こう」とするとき、心は何事かを語っているのだろうか。

 

相手の言うことを斟酌する、相手の立場を考える。そこに密かな侮蔑や優越の感情が混じる。相手やその場に何らかの意味を与える、或いは相手との遣り取りの体裁を整え、その場を凌ぐための尤もらしい理由を探し汲々とする心の内は、「心を開く」という状態からは多分に懸け離れているように思える。

 

疑問に思うのは、「心を開く」時に、心には何かーその場面を言葉で置き換えようとすることや、その場面を把握するために自身の経験から関連した記憶を辿るなどのー意識が生じているのかということである。

 

「心を開く」というのは、相手なり場面を「ありのままに受け止める」のと同義であるように多くの人は捉えているのではないかと思う。「ありのままに受け止め」ようとするとき、心に何か言葉なり記憶なりが生じているのであれば、それは意識的にその場面に何らかの形ー帰結ーを与えようとしている、とも言えるのではないだろうか。
対応する相手の言うことを自分の心に収まりやすい言語に置き換え、記憶の変更を図ることは、「ありのまま」の状態を歪めている。
では、例えば相手の言うことをそのまま真に受けることが、対人関係上の「心を開く」という状態なのだろうか。

 

ここで更にもう一つの疑問が生じるー「心を開く」というのは「受け止める」ことなのだろうか。そもそも、「受け止める」とはどういう状態なのだろうか。「止める」というのは、記憶に留める、というふうにも捉えられる。心を開く=相手(の言葉)やその場面をそのまま記憶に留めるということだろうか。相手の「そのままの状態」とはどのような状態を、「その場面」とはどの場面のことをいうのだろうか。

 

このように考えていく中で、一体何が腑に落ちないものとして自分の心に生じているのかといえば、自分のリアルも相手のリアルも推し図る程度が能力の限界であるという事実が前提にあるのならば、相手を「受け止める」ことは不可能であるということと、「心を開」こうとするときには、寧ろできるだけ意識を排除しようとする状態を採るのではないか、ということで、上述したような「心を開く」、或いは「受け止める」という言葉の、一般的な含意に対する疑問が自ずと浮かび上がってくるのである。

 

つまり、心を開こうとするために、相手や場面を自分の語彙に置き換えようととするのであれば、それは相手なり場面なりを自分の物語に牽引しようとしているのである。そして何かを受け止めようと意識する時には、そこに自分の趣味を被せようとしているのである。

 

では、心を開くということの真の意味とは何か。

 

意識化せず、言語化せず、記憶にも留めない。それが相手や場面に「心を開く」ということなのか。答えはそうであり、そうでない。目の前にいる相手を意識しなければ、「心を開」こうとする自身の意識も生まれない。しかし意識して相手や場面に形を与えようとするのであれば、「心を開」いている状態であるとは言えない。「心を開く」状態とは、一旦捉えた現実(相手或いは場面)に仮説としての自由度を保証し続けることである、ということではないか。

 

麗しい人も零落した人も、稀な幸運も落莫たる現実も、見方次第であるのは言うまでもない。決して忘れることはないと思われた極めて印象的な出来事も、自分が変われば思いの外容易に記憶の網をすり抜け、意識の縁から漏れ出ていく。そうかと思えば突如蘇る記憶が心に細波を立てていく。自分の記憶ですら、確固として心に留めておくことはできない。そのうえ自分が「何に」意識を向けているのかも、厳密にいえば確かめる手段はないように思われる。自分にできることは、自分の意識に上ったと思われる「何か」に対し、できるだけ誠実であろうとすることだけであるような気さえする。

 

このような意味で、「心を開く」ことは、祈りに似ている。

 

祈りとは、「ありのまま」を重んじる積極的な態度であり、世界と人間とを近しくするために望ましい精神的姿勢である。

 

祈りが世界を豊穣なものに変え、祈りが人間の自由度を押し広げる。
例えば老人の穏やかな眼差しや、好奇心に満ち輝く子供の瞳の奥に、祈りの形をみる。

 


神前にて

f:id:lovrl:20151216013617j:plain

 

時々神社仏閣に赴き、神前で静かに手を合わせたいと思う。
境内の静けさに身を浸し、木漏れ日に安らぎ、参道を歩いているときの爽やかな心持ちを思い返し、それらを追体験したいと思う時がある。

 

境内に植えられた樹齢数百年にもなる大木を見上げ、大木から見下ろされている自分を思う。百年を超える年輪に刻まれた時間からすれば、私の一生は瞬きをする間の如く短く儚い。そんな小さな存在である私が何を思い煩い、また何を成そうとするのか、それら全てが一体何になるのかと思う。
しかし人間は生まれたならば死ぬまでは生きねばならない。
このように書くと恐ろしく単純極まりないことのように思える。
生まれたからには、死ぬのは当然である。
この単純極まりない事実の受け入れを難しくするのは、生まれるのも死ぬのも個体として初めての経験であり、繰り返されることがないからである。したがって、人間の全てが、生まれ生きることを各が引き受けてきたと言え、尚かつ、各が各の死を引き受けていく、と言える。

 

一人の存在が、その一生をしてその身にどのような意味を包含するのかは、明らかにされていない。数百年の時を経て語り継がれる人物の一生をみても、語り尽くされてはいないし、また、語り尽くされるということもない。

 

生前は無名でその時代には殆ど無いに等しいとされていた人物が、死後に圧倒的な存在感を示すということがある。中にはそうしたことも、その人物の中では生前から予想の範疇にありながら、敢えて無名のまま亡くなっていく人がある。人間の実存感というのは、生を受けている間だけに留まるものではない。その人物が成した事は時代の影響を受ける部分と、そうでない部分とがある。無から生じた自然に近い部分と、その時代に向ける社会的な側面との両面を併せ持つのが人間であるのだから、時代が明らかにする部分と、謂わば普遍的な部分として捉えられる両側面があるのは、当然だとも言える。このような人間の多様性を考える時、一人として軽んじられる人間はなく、その人間が何を表現しているのかを重んじることが、時間を創るのだとも言える。現在、という現在は何処を指すのか。過去は本当に過去なのだろうか、と。

 

f:id:lovrl:20151216013555j:plain

 

 

私は勉強にも運動にも興味がないわりに、おかしなことに引っかかりを感じる質であるようで、遠巻きに見て平坦な道でよくよろけて転んでいるような子供であったのらしい。それは今でも変わっていないような気がする。

 

時々神社で手を合わせるのは10代の頃からである。手を合わせ何を思うのかと言えば、殆ど何も思わない。というのも、一般的には神前で何かを願うということをしているように見えるのだが、何かを「願う」ということが何を意味するのか、と考えてしまうからである。この世界の成り立ちをみても、平等や平和は実現されておらず、平等や平和に見えるものは、何かの犠牲を強いて実現されていると見なされる、ある一つの側面に過ぎないと思うからである。何かを願い、その願いがー例えば無病息災などのことがー叶う時、その背後に何らかの犠牲が生じているのだろうか、そのように思うと「願う」ということができないのである。

 

こうした理由で私は神前で、「今ここにこれて良かった」ということや、「できればまた来たいと思う」などということを思うでもなく思う。それが適切なのかどうかは解らない。
また、このように書いたからと言って、何かを願うことを否定するものではない。何かを願わずにいられない瞬間があり、そこにはそうせざるを得ない背景があるのも理解できる。肝心なのは、願うこと、叶うこと、それらがそう単純な成り立ちではないということに、思いを巡らせるのも必要なのではないかと思うのである。

 

 

f:id:lovrl:20151216015158j:plain