「阿留辺幾夜宇和」(二)
明恵上人
「ユングの言う個性化、あるいは自己実現について、日本人としてはどのように考えるべきかが、私にとって終生の課題となった」と記した河合隼雄氏は、「個性化の過程」についての洞察を深めることをも目的の一つとして、明恵上人を取り上げ『明恵 夢を生きる』を執筆された。
明恵上人との出会いについて、河合氏は「とうとう日本人の師を見出したという強い確信」を持ち、記された本書は「日本人としての自分の生き方を考えたり、ルーツを探し求める」ことを通じて「そこで得たことが単に日本人として意味があるというのではなく、世界全体として人間の心を考える際に何らかの役に立つものである」との思いに至ったからであるとしている。
この鎌倉時代の名僧を特に取り上げたのは、明恵上人が残した膨大な「夢記」が、「分析心理学者のユングが個性化、あるいは自己実現の過程と呼んだものの素晴らしい範例である」と感じたからである、とする。
みることはみなつねらなぬうきよかなゆめかとみゆるほどのはかなさ
明恵の出家を導いた叔父は上記のような歌を読み、それに対し明恵は
ながきよの夢ぞゆめぞとしる君やさめて迷える人をたすけむ
との返歌を読む。「浮世のことは夢のようにはかなく無常」であるとした当時の僧侶や教養人の常識を歌った叔父に対し、明恵は「この世が夢と知るなら、そこから覚めて迷える人を助けては」との積極的な態度をこの歌で示した。つまり明恵は「この世を夢とみるような態度から、はっきりと覚醒し、その目覚めた目で、彼は自らの夢を見ていたのである」。
明恵は夢を生涯に渡って克明に記し、尚かつ研究的な視点を崩すことはなかった。明恵が夢記を記すきっかけとなったのは、自身の耳の切断を契機とする。当時の仏僧は外見にこだわり、剃髪着衣の本来の意味を見失っており、仏陀の意志を踏みにじっていると感じたことから、明恵は剃髪着衣以上の形をやつす必要を感じそのような行為をとった。耳の切断の後、明恵は夢に文殊の像の顕現をみる。
「これによって明恵は自分の信仰に自信を得、他の僧たちと離れ、ただ一人で経文を頼りとして、ひたすら内的な世界へと没入してくこととなったと思われる。ここで明恵の青年期は終わり、ひとり立ちの僧としての修行がはじまるのであるが、耳の切断と、文殊の顕現は、成人となるためのイニシエーションの儀式にふさわしいものであった」。
覚めた目で夢をみることが何なのか。明恵の記した夢記の意義について、河合氏は以下のように記す。
意識のあり方がある程度夢に影響を与えるしーと言っても自分の見たい夢を見るなどというものではないがー、夢が意識のあり方に影響を及ぼす。意識と無意識の相互作用によって、そこに意識のみの統合を超えた高次の全体性への志向が認められてくる。このような過程を通じてこそ真の個性化が生み出されてくると考え、ユングはこのような過程を個性化の過程、あるいは自己実現の過程と呼んだ。(中略)ユングは夢と自己実現ということとの関連を身をもって体験し、それを記したと言えるのだが、それと同様のことを、明恵がすでに13世紀に行っていたということは驚異的なことと言わねばならない。
13世紀に明恵が成したことの解釈が20世紀まで待たれたということも、また稀有なことである。
明恵の歴史的位置づけは、同時代の法然、親鸞、道元、日連などの仏教の新勢力に対し、旧派の代表として小さく取り上げられているに過ぎない。しかしそこに大きな意義を見いだした河合氏は以下のように語る。
「歴史的意義という場合、われわれはどうしても、そこにどのような新しい変化がもたらされたかを問題とする。」
しかし明恵については、
「明恵が日本の宗教史の中で何か新しいことをもたらしたか、という観点ではなく、彼の宗教性そのものに注目すべきではなかろうか。そうすることによってこそ、明恵を本当の意味で、わが国の仏教思想史の中に位置づけることが可能であろうと思う。」
鎌倉時代に次々と現れた祖師たちは、仏教におけるある一面を切り取って、先鋭なイデオロギー的教義を打ちだして独自の宗派を形成していったと言うことができる。
「これが正しい」ということは「これ以外は誤り」ということになりがちであり、そこにきわめて明白な主張が可能になり、多くの人を惹きつけることになる。
イデオロギーは善悪、正邪を判断する明確な基準を与える。イデオロギーが変わればその基準も変化するわけであるが、それがどのように変化したか、なぜ変化したかも論じやすいので、思想史というとどうしてもイデオロギーの変遷を追うことになる。しかし考えてみると、人間の存在、あるいは世界という存在は、もともと矛盾に満ちたものではなかろうか。もっとも、矛盾などといっているのは人間の浅はかな判断によるものであり、存在そのものは善悪とか正邪を超えているのではなかろうか。そして、仏教こそは、もともとそのような存在そのものを踏まえて出現してきた宗教ではなかろうか。
したがって仏教はイデオロギー的ではなくコスモロジー的な性質を強くもっている。コスモロジーは、その中にできる限りすべてのものを包含しようとする。イデオロギーはむしろ切り捨てることに力を持っている。イデオロギーによって判断された悪や邪を排除することによって、そこに完全な世界をつくろうとする。この際、イデオロギーの担い手としての自分自身は、あくまでも正しい存在となっている。しかし、自分という存在を深く知ろうとする限り、そこには生に対する死、善に対する悪のような受け入れがたい反面が存在していることを認めざるを得ない。そのような自分自身も入れこんで世界をどう見るのか、世界の中に自分自身を、多くの矛盾と共にどう位置づけるのか、これがコスモロジーの形成である。
コスモロジーは論理的整合性をもってつくりあげることができない。コスモロジーはイメージによってのみ形成される。その人の生きている全生活が、コスモロジーとの関連において、あるイメージを提供するものでなくてはならない。明恵にとっては、何を考えたか、どのような知識をもっているか、などということよりも、生きることそのものが、深い意味における彼の「思想」なのであった。
明恵の中心思想に「あるべきやうわ」がある。
「我、戒を護る中より来る」を最後の言葉に残した明恵の思想は、日々のものとの関わりに細かい戒を持ち、それを忠実に護ることから生まれた。
清規「阿留辺幾夜宇和」を見ると、「聖教の上に数珠、手袋等の物、之をおくべからず」「口を以て筆をねぶるべからず」などの細かい注意がたくさん書かれている。また『却廃忘記』を見ると、灯籠を持った手には油がついているから、そのままで経文にさわってはならない。小便をするときも、とばしりがかかるから着物を脱いだ方がいい、などと実に細かい日常生活の注意が述べられている。
このような日々の「もの」とのかかわりは、すなわち「こころ」のありようにつながるのであり、それらをおろそかにせずになし切ることに、「あるべきやうわ」の生き方があると思われる。そこには強い意志の力が必要であり、単純に「あるがままに」というのとは異なるものがあると知るべきである。明恵にとって戒律を護ることは極めて重要なことであったが、彼は『却廃忘記』によると「タダココロのジツホウ(実法)ニ実アルフルマイハ、ヲノヅカラ戒法ニ符合スベキ也」と語ったという。すなわち、心にまことのある振舞いは、おのづから戒法にかなうものであるという考えであり、むしろ二百五十戒は大綱をあげたもので、これに準じて生きているとしても、「実ニ無辺ノ威儀、事ニヨリ時ニゾミテアルベキ也」と考えるのである。二百五十の戒を全部守っていればよいという、戒を中心とした考えではなく、戒はむしろ大網を示しているのであって、事により時により、そこでいかに生きるべきかということを考え、それに従うことが根本であるとするのである。
明恵が「あるべきやうに」とせずに「あるべきやうわ」としていることは、「あるべきやうに」生きるというのではなく、時により事により、その時その場において「あるべきやうは何か」という問いかけを行い、その答えを生きようとする、きわめて実存的な生き方を提唱しているように、筆者には思われる。
戒を守ろうとして戒にこだわりすぎると、その本質が忘れられてしまう。さりとて、本質が大切で戒などは副次的であると思うと、知らぬ間に堕落が生じてくる。これらのパラドックスをよくよく承知の上で、「あるべきやうは何か」という厳しい問いかけを、常に己の上に課する生き方を、明恵はよしとしたのであろう
夢を記すことが何か、戒を護ることが何か、そこに単純な答えは示されていない。夢を記さずとも、戒を護らずとも、咎められることはない。咎めるのは、対外的な何かではなく、自分自身を鋭く見つめる心のあり方である。古きを追求するのは、真新しいがために人目を引く旗印を打ち立てるような華々しさはないが、対外的な時代の変遷として栄枯盛衰を見るのではなく、人間古来の「生きること」そのものを見るがためである。
私たちがこれからを生きる上で、着眼するもの、とらわれている思想が何かについて、自身の心と身体と、つまり内面と行為のあり方から、今再び省みることが必要なのではないかと思われる。
人間一人一人の存在は軽んじられるものはない、何故ならば「ありのまま」であることと、「ありのまま」を追求することが尊いからである、ということを考えていた頃、この本に出会った。その時何故か「山の方」に行きたいとぼんやりと考えていた。周期的に自然の中に身を置かないといられなくなるのである。折しも晩年明恵の過ごした高山寺に参拝する機会を得られたことに望外の幸せを感じ、感謝の意を表したく、ここに記した。