鏡花水月

キョウカスイゲツ

天上天下(一)

ありふれた風景

 

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年が明け一月も過ぎようとしている。今年は年末年始と勤務で、正月は平日と変わらずに過ぎた。今時分同僚は家族と団欒していることだろう、そう思うのも悪くなかった。

 

子供の頃は正月が待ち遠しかった。
亡くなった祖父の生前には、年末からお年玉袋に孫の名前を書き付け、新年の準備をするのが祖父の晩年の年中行事に加わっていた。年明けには親族が祖父の家に集まり新年を祝う。仰々しくお年玉を配り、子供の前で腕組みなどもするのだが、目尻の皺は寄ったままだった。祖父は気分が良さそうにしていた。祖母はその傍らで微笑んでいた。祖母の笑い方は、小さな日溜まりのような温もりを含んでいた。
正月に集まった孫たちに向け、祖母はお汁粉をふるまってくれた。しかし不甲斐ない孫の私は、お餅やお菓子を食べ過ぎていて、お汁粉を食べきることができなかった。「まだあるからね」そう言う祖母は、気分を害したような素振りを見せたことがなかった。
子供ながらに、その祖母の平生変わらない笑顔が疑問であった。前日から準備をしていたであろう料理を残され、少しは気分を害したのではないか。しかしそれに限らず祖母は祖父の傍らに居て、少し眼を伏し目にして微笑んでいるのが常だった。

 

家を出てから正月に帰省できないなどと言うと、必ず祖父から電話がかかってきた。「何してるんだ」電話口から懐かしい声がした。「正月くらい顔を見せて、親孝行しなけりゃ駄目じゃないか」黒電話の受話器に切々と言葉を継いでいる祖父の姿が浮かんだ。

 

子供の頃の記憶を辿る時、そこには常に祖父母の姿が浮かぶ。
祖父の家に遊びにいくと必ず、大皿に多量の揚げ物や刺身が盛りつけられ、食卓を皆で囲む。「頂きます」と言うや否や、祖父は素早く箸を取り、おかずを子供の茶碗に取り分ける。「いっぱい食べろ」そう言い子供の食する姿を見ている。残すといかにも残念そうにする。「ぜんぜん食べてないじゃないか」何だかぶつぶつ小言めいたことを言う。そんな遣り取りを見つめる祖母は、平生と同じように微笑んでいる。
祖母が何か話らしい話をした覚えは殆どない。祖父が江戸っ子口調で調子よく話している隣で「あら」(・・・そんな言い方をして・・・)とか、「あれ」(・・・おかしなことを言い出して・・・)と、祖父の話に相槌を入れては、黒く澄んだ丸い眼を輝かせて楽しそうに笑っているのだった。

 

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一度だけ祖母が長い話をしてくれたことがある。
戦時中のことが話題になった時、都心から地方へ疎開した時の状況を、祖母は不意に話し出した。
当時幼い三人の子供を連れ、空襲で焼かれ消失した家を後にし、祖母は地方へ逃れた。都市部から地方まで当時半日以上はかかったであろう列車での道のりだったと思われる。列車は避難のため殺到する人の群で溢れていた。祖母は子供を自分に縄で括り付け、列車にしがみついた。色白で、細腕の淑やかな祖母であったが、当時は別人のような力を発揮しなければ、その状況を乗り越えられなかった。
その時の祖母には「今」に必死にしがみつくよりなかった。
過去が約束した未来も、過去から培ってきた今あるはずの安寧も失われた。「今」は「生きながらえること」以外になかった。
有り余るほどの食物で溢れる食卓を囲み、子供達が嬉々としてそれらを頬張る有様を、祖母はー今も昔もー見ていたかったに違いなかった。
ただ生命を繋いでいくだけの「今」には、過去を懐かしむことも、未来を思い描くこともできなかった。そうするだけの力はその時の「今」にはなかった。
何も知らない幼い私たちが和やかに食事を摂る様子を見つめながら、過去から連綿と繋がる幾層もの時間に、祖母は身を浸していたのだろう。そんな話も、後年脳神経障害を起こさなければ聞けなかった。祖母は何も言わずに去る覚悟であったのだろう。

 

子供の私が見ていたありふれた風景は、「ありふれて」などいなかった。そうと知るのはある程度成長するまでの時間を経ねばならなかった。
定点的に生きることを強いられていたなら、尚更その「時」も生じず、「ありふれた」ものの意味も知らぬままだったわけである。

 


定点観測

 

子供の頃の記憶を辿ると、そこに祖父母の姿が浮かぶ。
元来職人気質で気難しいところのある祖父は、傍らに祖母の存在を感じていたから、機嫌良く振る舞い、調子よく話をすることができた。祖母はその時の意味を知る人だった。その時に留まりその時の意味を味わうことのできる人だった。祖父や私は、それを大切に扱うことが正しいことだとー常に穏やかに微笑むだけに居る祖母の振る舞いからー「知らされていた」。私は私のことを「私」と名乗ると知るだけの、ただの子供であることを、祖母の「庭」でー眼の届く範囲でー「許されていた」。祖父が祖父のようであることも、私が子供であることも、祖母の世界での出来事であることをどこかで感じていた。そのように感じることが、子供の頃の幸福の実感であった。

 

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年末に受講した韓氏意拳の講習で、光岡英稔先生がpsychopathを社会に貢献させようという研究がある、と話題にされた。そう話されながら屈託なく笑われるので、随分な話にも思わず吹き出してしまう。次いで、でもそれは既にあるのではないか、と話を次ぎ再び大きく笑われる。途方もない話だと思いながらも「そうだな」と直ちに了解したのは以下のようなことである。

 


子供も老人も見かけなくなってきた。「見かけない」ーとは実感としてないということである。
よくある都市のつくりは、四方に城壁を巡らせ、生老病死を城壁の外へ追いやる構造であることを養老孟司先生に教えて頂いた。生産年齢と呼ばれる都市社会を構成する大多数の人口が作る規範から、生老ー子供や老人ーの請け負う「自然」は都市の括りからは排除される。子供は急速に大人になることを強いられ、老人は老人らしく振る舞うことを規制される。病や死は、医療現場に集約され人目につかないようになっている。


私の幼い頃の記憶には、祖父母の姿がある。私は祖父母から特にー「知る」ということを教わっていたのではないか、そのように思う。例えば人間の記憶というものが何であるか、と。

 

記憶はもっとも重要な脳のはたらきの一つである。昔から、記憶を失った人の話が伝えられているのは、そうした事実の有無はともかく、それが我々の考えている、日常の全人格に関わってしまうからだろう。逆に言えば、日常的なわれわれの人格は、いわば記憶によって、大きく保持されているのである。

 

(記憶)ー 養老孟司

 

日本の名随筆 (別巻44) 記憶

日本の名随筆 (別巻44) 記憶

 

 

 

人間は歳をとると身体機能は低下する。活動半径の減少と共に交友関係も狭まり、限定される空間と変わり映えのないーそして先細っていく見通ししかないー関係性の中で生活は次第に生彩を欠き、それが勢い老人を内省的にもするのかもしれない。晩年になると幼少期の思い出を殊更に持ち出し、小説家であれば随筆に認めもする。老い先短い老人の個人的な記憶など、今更持ち出して一体何になるだろう。時代の流れは速度を増し、世界の情勢は目まぐるしく変化している。グローバル化の波は、地域限局的な問題の影響をも世界規模に波及する。未だに戦争は止まず、世界平和の実現についてはそのきっかけすら掴めない。どころか、いつどの国が戦争に巻き込まれてもおかしくはないという時代に、社会からみれば砂塵ほどの価値もないー社会から降りた人間の個人の価値感や記憶など、問うてみるのは全く非生産的な行為であるとしてもいい。それは老人の懐古趣味に他ならない。現代ほどの厳しい時代に於いては、自分の身を守ることが精一杯だ。まして身内の幸せを願うのならば、周りにどのような出来事があったとしても、形振り構わず進むしかない。個人と、その記憶のことなど二の次であって、今はそんなことに関わってはいられない。

 

このような言明は偏狭である。こうした考え方に準ずる人間の理解とは「分かつ」ことなのである。分かつとは区別するということである。現在注目すべき情報と、それに値しない情報とを区分しラベルを貼っていく。


個人とその記憶?ー今はそんなことを考える暇はない。我々は家族や同胞との絆や、自国の未来を守らねばならない。そのために「必要なこと」には「余念を挟まず無心に遂行する」、それが新しい時代の倫理だ。

 

・・・・・

 

さて、ロムブロゾオ以来、天才に狂的素因のひそんでいることは定説になっているが、「逆もまた真なり」と云えないことも、これまた定説になっている。精神病院の患者がみんな天才であるというわけには行かず、狂人の狂想と見えるものも、凡庸な社会通念の或る誇張にすぎない場合が通例である。自殺や心中の理由付けもまたこの例に洩れない。今ここに一人の青年がいて、失恋をし、神経衰弱であり、生活苦のどん底にあったとしても、彼は自殺するとは限らないのである。戦後の青年犯罪の増加や、このごろの心中の増加に対して、すぐさま社会学的考察の引っぱり出されるのが流行になっているけれど、あらゆる社会学的考察は、畢竟、右に述べたような「理由づけ」の体系化であって、最後のところは何も語らない。

 

「心中論」(終わり方の美学) ー 三島由紀夫