鏡花水月

キョウカスイゲツ

星を射る(一)

「沈黙の聖人」 

「私が「私」というとき、それは厳密に私に帰属するような「私」ではなく、私から発せられた言葉のすべてが私の内面に還流するわけではなく、そこになにがしか、帰属したり還流することのない残滓があって、それをこそ、私は「私」と呼ぶであろう。

「太陽と鉄」 三島由紀夫

 

 

太陽と鉄 (中公文庫)

太陽と鉄 (中公文庫)

 

 

最も大切な人に向け、私はできるだけ誠実に、私について、私が私であることを語りたいと思う。最も大切だと思う人に対する私が、その人から見てどのような存在であるかは解らない。さほどの存在感はないのかもしれない。私の語るところに、その判断を左右させようとする意図はない。最も大切な人にとって、対する私という存在が、どのような意味を持つのかは私のあずかり知らぬところである。だが少なくとも、語るところにどのような誤謬が生じようとも、私は私のことを包み隠さず表現することこそが、最も大切な人に対して示したいと思う、私の誠実である。

 

そんなことを、本気で考え試みたことがあった。
語り終えた時に何を感じると思っていたのだろうか。
私について私の、或いは相手の理解が深まるとー思っていたのだろうか。
語るうちに、私は私の知る私しか知らない、といった感じを皮切りに、寧ろ語れば語るほど私は私から離れていった。私は私であることに固執したいと意思表明することと同じであったからである。

 

私が快さを、安楽であることを感じ、なおかつそれを無意識に甘受するだけであった記憶の届かないところで、私の知らない人間が、環境が、時代等がそう感じさせてくれていたということはないのか。
私が苦しみを感じたとき、ともすればより大きな苦痛を感じるであろうことを回避させてくれた人間、環境、時代等といったものの存在について、私は十全に目を配していただろうか。
私が私であることに固執したいと思った「私」を私たらしめる何かにーその背景に霞むものの中にー真があるのではないか。

 

顧みると、言葉を尽くすのは、その言葉の湧く源泉と消息を明らかにしたいがためであった。また行為にどれだけの思惟の裏付けがあったのかということであった。

 

尊敬に値すると思う人物の言葉や行為には、その現れの中に錬磨された精神、身体というものを感じる。「人物」ーと特に記すのは、観念のみならず実体のある人間であることを示しているのではないか。

 

沈黙するが如く言葉を吟味され静を保つとき、その人物に象られた内にあると感じるのは空虚ではない。ある飽和ー或いは充溢を感じるのだが、それは透徹しているがために表現することができない「何か」ーである。

 

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円の線条

 

21世紀にもなるが、人間は未だに人間であることを知らずある。
動物にはない文化や文明を発展させ、個体数は膨大に増加したが、数量の増加だけに発展をみることはできない。未だに戦争は止まず、その抑止力となる力を有さない。寧ろ本能に従って生き、潔く死す動物の方がよほど気高くも見えてくる。人間とはいったい何なのだろうか。

 

去る2月、赤塚不二夫生誕80年の節目に、次世代メディアクリエイター養成講座「バカ田大学」というイベントが開催された。

tadpole-lab.com

その講座の一つに、「バカと天才の壁」という表題から養老孟司先生が講演された。掲げられた表題について「バカと天才」を「人間と動物」改題し講話される。この講演に際し、養老先生の著書「無思想の発見」からの引用を含め考えたことを以下に記す。

 

 

無思想の発見 (ちくま新書)

無思想の発見 (ちくま新書)

 

 

 

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人間と動物の違いといえば、「言葉」を使うか否か、に現れている。
動物が言葉を扱えないのは「絶対音感」だからである。同じ言葉で呼びかられたとしても、「違う音」として認識するため、「言葉」としての認識はしていない。呼びかけに反応しているように見えるのも、例えるならそれはパブロフの犬のように、条件反射としての反応に過ぎないのだろう。他方人間は言葉を用いる。発するところの音の違いはあっても「同じ」意味であるということ、則ち概念を用いて意志疎通をはかることを修得したのである。人間も幼少の頃に絶対音感を持っていたとしても、多くは失ってしまう。それは言葉を扱うからである。

 

意識は「同じ」という「強い機能=はたらき」である。

意識は「はたらき」つまり機能で、機能はモノのような実体ではない
「「同じ」という意識」(無思想の発見) 

 

この意識ー脳ーが「同じ」を強調する働きにより、変化を徹底的になくそうとするー感覚遮断を押し進めるー人工空間が「都市」である。

 

脳内にあるものを展開したのが都市であり、人為に反するものは「ない」ことになる。だから「自然」が介入する余地がない。大きすぎる差異は平均化されていく。予期せぬ変化を恐れ、危険を伴うあらゆることを避ける。脳は個体の生存を延長するためにこれらのことを強く意識化する。つまり、都市機能にはそうした人間の脳が作り出した偏りが自然備わっている。首都だけでなく地方においても都市化の進行した現在、「同じ」という括りの中では、意識と意味があるべきものとなり、実体を見失う。

 

『感覚入力を無視し、概念を用いて同じとするのが人間の特徴である』 

 

このような意識の偏在性に対し、どのように対応したらよいか。

このことについて養老先生は以下のように言われた。

 

『感覚の復権』

 

脳の機能は「全体論」として説明される部分と「局在論」として説明される2つがある。このため「同じ」と、「違い」を認識する意識の2極化がが生じる。現在はこの「同じ」くすることに比重が傾いている。
例えば、リンゴの種別も、果実という概念で同じく、単純化し扱うことができる。唯一絶対神もこのように意識の「階層を上げる」ことで作られる。他方日本はかつて八百万の神を信仰していたのである。

 

意識はまた視野に入った全てを認識しているわけではない。だから常人には視野に入ったものの全てを描出するということができない。特に意識する事柄を現実とする。意識はこのような増幅装置でもあり、それが現実を歪める。

 

他方動物は感覚として「違い」を認識する。人間と動物を分かったのは「同じ」とする認識である。

 

「感覚の復権」を図るためには、この「階層を下げていく」こと、つまり経験を蓄積することである。これが実体験に確信を持つことにつながる。

 

『実体とは、感覚の世界に基礎を置くものだからである。』 

 

実体験に確信を持てないことー実体の喪失ーは、自身を抽象化する。「どこか」にある「本当」の「自分探し」をしているのでは、例えば人間とは、生命とは、死とはと問うても回答がないのは当然のように思える。

 

日本人の多くは「無宗教である」という。どのような信仰も持たないし、どのような思想も、哲学も持っていない、と多くは言う。自分が実体と結びつかないのであるから、そこにどのような思想もないのは当然であるのだろうか。

 

「私」の内実は無いーすなわち同心円を準えるだけの「円の線条」なのであろうか。

 

日本人は「無思想であるという思想を持っている」。これが「無思想の発見」である。

 


「無思想の発見」

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「同じ」という機能こそが、秩序を生み出す。「同じ」と秩序とは、たがいに切っても切れない関係を持つ。それは階層構造のところで説明したとおりである。「同じ」という機能によって、階層という秩序が生み出される。感覚世界のように、「すべてが違ったもの」であるなら、そこにはいかなる秩序もない。
ところで秩序活動である意識が、なぜ「まったく無秩序」を考えることができるのか。「同じ」は「違う」を前提とし、「違う」は「同じ」を前提とする。色即是空、空即是色、秩序は無秩序、なのである。つまりは掃除機の中のゴミで、それは部屋の秩序と同時に発生し、相互に補完している(中略)
日本の世間は、無思想の思想を長らく前提としてきたから、それが「思想である」ことすら忘れてしまったのだろう。でもそれに従って暮らしているとすれば、それは信仰というしかない

「「同じ」と「違う」の関係」(無思想の発見)

 

 

茶道なり武道なり、あるいは神道・仏道・修験道なり、日本の伝統的な「道」を思想として説明するのは困難である。世間ではそれをよく「理屈ではない」という。理屈ではないというより、「言葉ではない」のである。基本的にはそれらは所作、すなわち身体技法である。言葉で表現しない代わりに、こういうものが発生したのであろう。

「思想なんかない」という原理は、言葉による思想を抑圧する。それなら「思想」表現は言語以外の様々な形をとるしかない。日本にいまだ禅が広く残っているのも、そのためであろう。禅では不立文字と「文字で書く」。禅が先なのか、「思想なんてない」が先なのか、そんなことは知らない。しかし禅が元祖のインドや中国を外れて、もはや「日本らしい」ものになってしまったことは確かだろう。
現代において、この伝統的思想が問題になっているのは、当然として理解できる。現代は言葉の時代であって、日本の世間においてすら「言葉にならないものは存在しない」という傾向が表れているからである

「かたちを論じる」(無思想の発見)

 

イデオロギーを固持しようとするところに、行為が直結する。それを潔さ、清廉潔白といった美名で飾り、物語を現実に近づけようとすればするほど、現実は遠ざかる。現実としての終わりは一つではない。現実としての終わりをみることができるのは、個人の物語の中だけである。直情的な即断と行為は、人間の脆さを露呈するに留まり、その効果には広がりも深みも望めない。定点から定点へ線を引くようには、この世界は読解できない。論争に果てがないのは何故なのか。戦争が終結しないのは何故なのか。既に十分にそれを解くだけの材料を私たちは与えられてきたのではないだろうか。

 

原始仏教の説く「論争すら成立しない」状態とはつまり「「無思想である」という思想を持っている」と各々が自覚的であることではないか。それを実体験まで下ろすことなのではないか。

 

真理は自分の「手には入ったり」、言葉で「これだ」と示すことができるようなものではない。それはひたすら「追い求めるもの」である。暗黙のうちに真理を追う。ひょっとすると、それがもっとも真理に近づく道であるかもしれない。その態度こそが、真の「無思想という思想」なのかもしれないのである

「変わらないもの」(無思想の発見) 

 

 

 

2日間に渡る講演の前半の締め括りは『感覚の復権』であり、後半で挙げられたのは『フィクション』である。

 

西欧どの都市にもある小さな建造物が「教会」であり、大きな建造物は「劇場」である。そこにあるのは「フィクション」ーつまり「真っ赤な嘘」である。フィクションと保障されるために本音が出せるのである。現実社会で本音を言えば、それの多くは対立の火種にしかならない。

 

「フィクション」には多様なものが含まれる。例えば文学もその一つである。ここからは、加藤周一氏の著書「文学とは何か」からの引用を交え考えていく。

 

 

文学とは何か (角川ソフィア文庫)
 

 

プルーストの主人公マルセルは、マドレーヌの味から、『失われた時』をまざまざとよみがえらせます。マルセルにとってただ一回のマドレーヌは、その周囲の一切とともにかけがえのないものです。わたくしにとってある朝のコーヒーは、わたくしの青春とともにかけがえのないものかもしれません。青春は反復することができない。人生はやりなおすことができない、しかし実はわれわれの人生の一日といえどもやりなおすことのできない、ふたたび同じ一日のあり得ない一回かぎりのものです。そのような一日の体験は日常生活にとって役立たないということこそによって貴重であり、効用とは離れた価値を代表します。その価値こそ、体験の文学的価値である。そこにわれわれの夢があり、人生の美しさがあり、また希望や悔恨があるので、日常生活の効用のために整理された体験の中には、人間感情の深みは現れてきません。文学は感情を描きます。詩人は恋をうたい、小説家は情熱を分析し、劇作家は有為変転を支配する運命について語ります

「体験の文学的価値」(文学とは何か)

 

わたくしのいいたいのは、文学的体験が実は文学に固有のものでなく、人生に固有のものであり、誰の生涯にも日常的習慣の破れ目からそのような体験を通じておのが心の底をのぞかざるを得ない瞬間があるだろうということです。(中略)

文学とは、一ぱいのマドレーヌの味にふくまれる無限の意味について語るものです。しかし、またわれわれの生涯を決定する重大な瞬間について、もっとも深い意味でのいかに生くべきかという問題について語るものです。その問題は、われわれの人格の問題であって、科学的知識の問題でも、習慣に支配された日常経験の問題でもありません。しかし、われわれの人生を支えるものです

「文学と人生」(文学とは何か)

 

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これからの教育において文系の排除ということが言われているが、「役立たない」、「功利がない」などの短絡的思考で教育を行うことが、人間性の喪失に拍車をかけるということが危惧されるのは上記からも解ることである。

 

例えば文学に価値を見出さないということは、すなわち「人間のかけがえのなさ」や、「いかに生きるか」ということについて考えることの価値を見いだせないということにも繋がるのではないか。簡単に答えの出ない、しかし普遍性を持つ問いに文学は対峙し続け、人間や、人生といったことの鳥瞰図を描こうとしてきたのではないか。
文学を必要とするのは実人生を問う人である。
書物というのは所詮紙の束で、羅列された文字は模様のような抽象である。ー文学に価値を見出せないのであるならば。

しかし貨幣も紙であり、抽象である。そこに人間や人生は見いだすことはできない。